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今年は、佐藤龍猪さんが現世の旅を終えられてから30年目にあたります。こうした年月を経た今も、最初の宣教師が日本に到着して以来、125年にわたって主の御手がこの地における業を導いてこられたことを示すさらなる証として、佐藤さんの人生の軌跡と功績が色褪せることはありません。
「主の矢筒の中の滑らかで磨かれた矢」は、佐藤龍猪という名を持ってこの世に放たれ、天へと帰りました。彼は、私たちの魂に霊的な糧を与える主の使い手であり、忠実な僕でした。そして、一点の疑いもない献身と、主の弟子としての絶え間ない働きを通じて、イエス・キリストへの真実かつ模範的な信仰を示しました。御霊の導きに従い、日本の人々が「神の御言葉」を享受する機会を計り知れないほど大きく広めた佐藤さんは、日本語でつづられた神の御言葉を研ぎ澄まし、磨き上げ、霊感に満ちた輝きと荘厳たる気品をもたらすために、休むことなく働きました。

1899年に日本の鳴海という小さな村で生まれた佐藤龍猪さんは、卓越した知性を備えてこの世に送り出されました。この知性は、生まれ持った好奇心と真実への探求心を糧として養われ、駆り立てられ、大きく広がりました。彼の魂が持つ資質と力を早くから感じ取っていた家族は彼を愛し、祖母である佐藤ヨネさんとは、互いを思い合う愛、尊敬心、励ましで結ばれていました。家族全員が彼を育てるために一丸となり、個人的な成長と学びにふさわしい道を整えました。中学校時代、母親は午前4時に起床して、彼が約8キロの道のりを歩いて学校に向かう前に食事を用意しました。
龍猪少年は、固い絆で結ばれた村と、人々の間に息づく親切で互いを助け合う心に、深い感謝の気持ちを抱いていました。この地こそが自分の「居場所」だという思いは、彼の人生において大きな役割を果たすことになります。
好奇心に満ちた龍猪少年は、早くも10歳にしてキリスト教と英語の両方に関心を持つようになりました。鳴海地域で活動していたアメリカ人のメソジスト牧師との親密な交流がきっかけとなり、集会に参加するようになった彼は、やがて牧師の助手を務めるようになりました。当時の日本では一般的な宗教でも信仰でもなかった「キリスト教徒」になったのです。

学校で優秀な成績を収めた佐藤さんは、仙台にある最高学府、東北帝国大学に進学することになりました。専攻した化学分野では、学生、そして研究者として優れた才能を発揮しましたが、飽くなき好奇心から英語にも関心を持ち、高い語学力を身に付けました。
卒業の数か月前、彼は秋月千代さんと結婚しました。宮城県工業高等学の校長の娘であり、3歳ほど年下の彼女とは、佐藤さんが大学で指導を受けた土井晩翠教授の紹介を通じて知り合いました。
大学卒業後、佐藤さんは教育、鉱業、研究、製造分野の職に就きました。冶金学研究者として高い評価を得た彼は、横浜の日本金属工業株式会社で研究者として働きました。
この間、佐藤さんと千代さんは二人の子どもに恵まれました。息子の泰生さんは1939年4月9日、娘の淳子さんは1941年5月22日に誕生しました。日本の戦況が思わしくないと感じた佐藤さんは、1944年に日本金属工業の職を辞しました。そして、彼が生まれ育った故郷である鳴海に家族ともども引っ越したのです。そこでは、防空壕の建設や、ボランティアとして空襲を監視して近隣の住民に注意を呼び掛けるなど、忙しい日々を過ごしました。深刻な経済的困窮と窮乏を強いられていた当時の日本では、食糧や基本的な医薬品が極端に不足していました。
1945年8月15日の終戦からわずか11日後、佐藤さんと千代さんは、栄養失調と赤痢によって3歳の娘、淳子さんを亡くすという悲劇にみまわれました。泰生さんも非常に危ない状態でしたが、一命を取り留めました。娘を亡くした佐藤さんは絶望に打ちひしがれました。彼もまた、栄養失調と病に苦しんでいました。悲嘆に暮れた彼は、やっとの思いで鳴海の丘にたどり着くと、誰もいない場所で亡くなった娘を思って涙を流し、祈りました。この後、この家族に起きた出来事は、根本的かつ霊的な面で、後世に残る驚くべき影響を日本に及ぼすことになりました。
米国進駐軍が到着したのです。佐藤家族の住まいは、古くから多くの人々が行き交う東海道沿いにあり、米軍関係者がこの道を忙しく行き来するようになりました。佐藤さんは、東海道を通る多くの兵士たちが頻繁に立ち寄る地元の絹商店で働き始めました。彼の英語力は非常に重宝されました。
佐藤さんと末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった米国人兵士たちが、神の計らいによって引き合わされることになったのはこのときでした。佐藤さんは、彼らの振る舞いや佇まいが他の人とは違うことにすぐさま気付きました。言葉と行いのどちらにおいてもキリスト教徒であることが感じ取れたのです。
彼は、レイ・ハンクス、リード・デイビス、メル・アーノルド、ウォーレン・リチャード・ネルソン従軍牧師、ノートン・ニクソン、ジョージ・スウェット、エリオット・リチャーズ、ボイド・K・パッカー、トーマス・バウマン、そしてボブ・スウェンソンと、生涯、そして永遠におよぶ友情を築きました。専任宣教師として「召され」てはいなかったものの、これらの素晴らしい教会員たちは、佐藤家族と福音の光、希望、喜びを分かち合いました。この家族の改宗は、日本の人々の間で進められる主の業に偉大な貢献をもたらすことになります。その影響は、今や日本の国境を越えたはるかな地へと大きく広がっています。

佐藤さんと妻千代さんは1946年7月7日にバプテスマを受けました。レイ・ハンクス兄弟に宛てた手紙の中で、佐藤さんはこの日が「私たちにとって、最も幸せで、最も素晴らしい日でした」と綴っています。その日、天もまた大きな喜びに包まれていたということを、佐藤さんは思ってもいなかったでしょう。


佐藤さんの生涯は、意義ある人生をそのまま象徴しています。謙遜でありながらも熱意にあふれ、不屈の精神を持った、主イエス・キリストの弟子としての人生です。彼は、悲劇、喪失、試練によって試されましたが、それによって鍛えられ、希望と信仰をもちながら、たゆむことなく前進する人となりました。主の業への佐藤さんの貢献には神聖な力があり、それは今もなお大きく広がり続けています。

この謙虚な弟子に与えられた召しの中でもとりわけ重要なものとなったのが、1949年に十二使徒マシュー・カウリ―長老から受けた、生涯を通じて翻訳者の役割を果たすという召しでした。これは、教会の「召し」でも前例のない唯一無二のものでしたが、この召しを果たし、全うする方法も、他とは違う唯一無二のものでした。
第一に、佐藤さんは圧倒的な量の翻訳を比類ない質の高さで成し遂げました。特筆すべきは、「生涯を通じた翻訳者」としての最初の作業が、「モルモン書」の新たな日本語訳の作成であったことです。それは、想像を絶する規模と範囲に及ぶものでした。最初の日本語訳には、アルマ・O・テイラー長老とフレドリック・A・ケイン長老の5年間にわたる粘り強い努力が必要であったことを考えみてください(こちらのニュースルーム記事でお読みいただけます)。佐藤さんが戦後初の伝道部会長であったエドワード・L・クリソルド会長からモルモン書の翻訳依頼を受けたのは、同じく重要であれども、はるかに短い聖餐の祈りの訳を終えた直後でした。
モルモン書の最初の翻訳に対して佐藤さんが行ったことは、日本の言語と文化における大きな進歩を反映するための単なる近代化に留まるものではありませんでした。あらゆる意味において、モルモン書の完全な新訳であったのです。佐藤さんは、自らの心、力、思い、精神のすべてをこの作業に注ぎ込み、崇高でありながら極めて困難なこの過程において、休むことなく働きました。
第二に、佐藤さんによる翻訳は常に、読む人の心に霊感と啓示をもたらしました。この翻訳の過程と成果は、死すべき人間が持つ優れた知性の働きを超えるものであり、その質の高さは、日本の文化、社会、歴史に関する造詣や見解だけでは成しえないものでした。この過程は、佐藤さんのイエス・キリストの弟子としての献身を深めるとともに、日本の人々に格調高く、豊かで霊的な「鉄の棒」をもたらす結果となりました。
翻訳作業がどのようなものであったかについて佐藤さんが親族に残した個人的な言葉には、絶え間ない「心からの祈り」、御霊に導かれた深い考察、そして永遠の力である主の御手に完全に従い、すべてを委ねるという経験が繰り返し語られています。彼は、慈愛に満ちた謙虚かつ細やかな注意を払いながら、すべての言葉、文、表現を丁寧に扱いました。翻訳されたモルモン書が純粋な真理をもたらし、徳を高め、「主の御言葉」に対する感謝の気持ちを深める、それこそが彼の心からの願いだったのです。
佐藤さんは、教義と聖約、高価な真珠、パンフレット、手引き、その他資料の翻訳も手掛け、日本の人々にそれらが提供されるようになりました。ジェームス・E・タルメージ長老による不朽の名著、『キリスト・イエス』と『信仰箇条の研究』の2冊を翻訳したのも佐藤さんです。彼が仕えた主と教会のための翻訳の業は、真に尽きることのない福音の光と真理の源として、今もなお生き続けています。

自らの召しをさらに全うすべく、佐藤さんは1965年に空路でハワイに向かいました。その年に行われる日本の聖徒たちのハワイ神殿参入に備え、神殿の儀式を日本語に翻訳するためです。日本でかつて伝道部会長を務め、日本語にも極めて堪能であったポール・アンドラスさんは、佐藤さんとともに翻訳委員会の委員を務めました。アンドラスさんは、佐藤さんによる翻訳の美しさと素晴らしさについて語り、「それに加えて、非常に分かりやすい」翻訳だと評しました。ソルトレーク・シティーに別途設けられた審査委員会でも、数人の審査委員が、翻訳を読みながら「あまりの美しさに涙がこぼれた」と話しています。

教会が佐藤さんの才能、奉仕、素質を必要としたことから、彼は拠点をソルトレーク・シティーへと移し、そこに居を構えることになりました。佐藤さんは1958年に最愛の妻である千代さんを亡くしていましたが、移住先のソルトレーク・シティーで平西登美子姉妹と出会い、結婚しました。

佐藤さんは登美子とともに、系図の探求、記録の作成、名前の抄出においても教会への多大なる奉仕を続けました。ここでも、かつて彼が情熱を注いだ日本の古典文学と関連するくずし字と旧漢字の研究が役に立ちます。神殿儀式のための名前の抄出に活用される、現代では使われなくなった古い漢字を判別し、読み解くための資料を作成したのです。この後、佐藤夫妻は日本東京神殿でも神殿宣教師として奉仕しました。

佐藤さんのキリストの弟子としての歩みがいかに広く、深く、そして力強いものであったかを語らずにこの記事の終えることはできません。佐藤さんは、彼が愛し、仕えた主への奉仕において、常に活発に活動し続けました。彼は、自宅で行う日曜学校クラスに近隣の人々を老若問わず招待することで、数えきれないほど多くの人々の人生に触れました。正式な教会堂や組織が存在しなかったときでも、自宅で忠実に日曜学校を開きました。
佐藤さんは、「謙虚」という言葉の持つ意味を真に、そして最も力強く体現した人でした。常に光と真理を求め、好奇心を失わず、学ぶことに努力を惜しみませんでした。彼にとって、取るに足らない仕事や奉仕は一つもありませんでした。晩年には、エプロン姿で料理をし、皿を洗い、食事を運ぶほか、他の人々に奉仕する妻の登美子を熱心に手伝う姿がよく見られました。

1990年代初頭のあるとき、大管長会は、佐藤さんによる翻訳版に続く、モルモン書二度目の『再翻訳』に着手するための委員会を組織しました。最近、その新しい委員会に属していた委員の一人が、佐藤さんとの交流について語りました。委員会のリーダーの一人として、佐藤さんと委員会の間をつなぐ連絡役として任命されたときのことを振り返った彼は、その役割が何をもたらすかについて深い不安と懸念を感じたと話しました。しかし、佐藤さんと初めて会ったとき、その不安は消えてなくなりました。佐藤さんがこのプロジェクトについて失望、不満、懸念を口にすることも、そのような様子を見せることも一切なかったからです。不安を抱いていた彼でしたが、むしろ佐藤さんに感銘を受け、深い敬意を感じるようになりました。佐藤さんから受けた励ましと支持の言葉により、信頼の置ける味方、友人、相談相手、助言者、協力者だと思えるようになったからです。彼は今でも佐藤さんを心から愛し、尊敬しており、この機会を通じて育まれた友情を宝物のように大切にしています。
佐藤さんは、司令官モロナイのような模範的な人でした。これを聞いた佐藤さんが「滅相もない」と顔を赤らめる姿が目に見えるようですが、もし私たち全員が彼のようになることができたなら、「地獄の力でさえもとこしえにくじかれてしまう」ことでしょう。