編集者注:このシリーズでは、末日聖徒イエス・キリスト教会の日本教会歴史125周年を記念して、会員やその家族の霊的な歩みを紹介しその経験を通して「主の御手」が示されてきたことを綴ります。第3回となる今回は、広島ステーク廿日市ワード*1の桐林ミチコ姉妹*2から寄せられた証をお届けします。

1.二人の宣教師、我が家へ
1967年4月1日、我が家のドアを二人の若いアメリカ人宣教師*3がノックしました。「神様はいると思いますか?」そう尋ねられた私は、前年に帝王切開で長男を無事出産した経験を思い起こし、「はい、いると思います」と答え、夫が帰宅する午後6時に改めて来て頂くことになりました。その日の夕方、シュルツ長老とタッカー長老は約束どおり来られました。私が「お茶かコーヒーはいかがですか」と尋ねると、「どちらも飲みませんので、お水をいただけますか」と笑顔で答えられました。お客様にお水だけを出すのは失礼だと思った私は牛乳をお出しし、そこから福音のレッスンが始まりました。人生の目的やイエス・キリストの贖いについて学び、同年5月21日、私たち夫婦は広島支部でバプテスマ*4を受けました。その教えが真実で愛に満ちていたこと、そしてこの福音に従って子育てをしようと夫婦で心を一つにしたことが理由でした。宣教師の勧めに従ってモロナイ書10章4節を読み、祈った時、聖霊によって心が温かく満たされ、福音が真実であるという確信を得ました。その証は今でも、私の心に生き続けています。
2.教会員としての生活、そしてハワイ神殿へ
毎週日曜日は、朝から夕方まで教会で過ごしていました。そのため帰宅する頃には疲れ果てていましたが、家族そろって福音を学べることは何よりも幸せでした。その後、大阪で開かれた地方部大会ではシュルツ長老と、東京の伝道本部ではタッカー長老と再会することができました。転勤によって離れても、宣教師とのご縁は途切れることなく続いていました。1968年1月、福山市で次男の慶が誕生しました。産後、実家で静養していたところ、二年間の伝道を終えたシュルツ長老が、お父様と共にわざわざ訪ねて来てくださいました。帰国直前に遠くまで来て下さった心遣いは忘れられません。その後、シュルツ長老がBYUアンバサダーズのメンバーとして再来日した際には、東京の立川基地まで会いに行き、その後、山口県の岩国基地で公演が行われた際には、広島観光にもご一緒しました。しかし、その後は互いに忙しくなり、いつしか長い間連絡が途絶えてしまいました。
1970年、夫が広島支部の支部長に召された年、私たちは大阪万博を訪れた後、ハワイ神殿へ向かいました。そして、夫婦の結び固めという大きな祝福を受けることができました。ハワイではルドルフ・タイ兄弟から祝福師の祝福を受け、ホームステイ先の方々にも温かくもてなしていただきました。滞在中、日系三世のご夫妻と食事をしたことがあります。そのとき、傍にいた可愛らしい金髪の女の子について奥様に尋ねると、「この子は養女です。子どものいない家庭は本当の意味の家庭ではないと感じ、私は教師を辞めて夫婦でこの子を迎えました」と穏やかに話してくれました。その言葉とご夫妻の深い愛情に、私たちは大きな感銘を受けました。福音を実践する人々の慈愛の深さに胸を打たれた私たちは「日本へ帰ったら女の子を迎えよう」と話し合いました。この決意が、後に夏子との出会いへと繋がるのです。
3.夏子との出会い、そして再び結ばれたご縁
帰国後、幼稚園の園長先生の紹介で児童養護施設を訪れ、そこで愛らしい夏子と出会いました。施設を後にしようとしたとき、夏子は部屋のカーテンを少しだけ開け、その隙間から私たちが帰っていく姿をじっと見送っていました。その小さな姿を見た瞬間、夫婦で「あの子を家族として迎えよう」と心に決めました。息子たちも妹ができたと喜び、家族みんなが心を一つにして養女を迎えられたのは大きな祝福でした。
年月が流れ、夫が広島地方部長として奉仕していたある日、教会本部の依頼で『The Church News』の取材を受ける機会がありました。原爆ドームを背景に撮影された夫の写真と記事が大きく掲載され、その中で夫は、「建物の再建だけでなく、人々の心も再び築いていくことが大切です」と証を述べました。すると、長い間音信不通だったシュルツ長老から突然、国際電話がかかってきました。「新聞を見て驚きました。桐林家が今も忠実に教会に集い、正樹兄弟が地方部長として奉仕していることを知り、感動しました」という彼の声を聞き、疎遠だった歳月が一気に縮まりました。私たちを福音へと導いてくれた宣教師は、ずっと私たち家族を心に留め続けていてくださっていたのです。

4.ラボ国際交流、そして『キリバヤシタイムズ』
1982年の夏、私はラボ国際交流プログラムを通してアイダホ州を訪れ、シュルツご夫妻の温かいもてなしを受けました。また、ソルトレーク・シティーにも案内していただき、数多くの教会史跡を巡るという貴重な経験ができました。
1987年4月、長男・潤が大学を休学して東京北伝道部へ出発しました。息子を見送った帰り道、私はふと、潤から届く手紙や家族の日々の出来事を伝える家族新聞を作ろうと思い立ちました。こうして誕生したのが『キリバヤシタイムズ』です。次男がワープロ入力を担当し、手作りで編集した新聞は、多くの方々に喜ばれ、やがて地元の中国新聞にも取り上げられました。翌年の春には、次男も大阪伝道部へ出発しました。そのため孤軍奮闘で発行を続ける私を見て、当初は静観していた夫も「父からの手紙」というユーモアと愛情にあふれたエッセイを毎号書いてくれるようになりました。2015年に夫が天に召された後、次男はそのエッセイを一冊の本としてまとめてくれました。今でも落ち込んだ時にその本を開くと、夫の深い信仰と優しさが息づいており、勿体無いほどの祝福を受けた人生だったと感謝で一杯になります。「どんなに良い記憶力も、使い込んだ筆にはかなわない」という諺の通り、記録の大切さを実感しています。
5.受け継がれた福音、孫の神殿結婚へ
長い間連絡が取れなかったタッカー長老との再会は、リアホナを通して突然もたらされました。2005 年8 月号に東京南伝道部の新任会長として紹介されていたのです。この時の打ち震えるような感動は今も忘れられません。夫はすぐに沢山のケーキを焼き、伝道本部に送り届けました。
2017年の夏、私は孫の愛子と沙弥と共に、ユタ州にあるタッカー家に三週間ホームステイしました。空港に到着すると、タッカーご夫妻がアイダホにいる沙弥を迎えるために、往復十時間も車を走らせてくださったことを知り、五十年経っても変わらない愛に胸が熱くなりました。滞在中、地元の断食証会では私たち三人が壇上に立ち、宣教師との出会いによって三代にわたり祝福されたと証を述べ、多くの会員と喜びを分かち合いました。また、2023年の夏には、アリゾナ州で伝道していた孫の良匠に会うため、シュルツご夫妻がカリフォルニアから遠路訪ねて来てくださいました。そして2024年7月27日、孫の沙弥はスコット・クリステンセン兄弟とユタ州マウント・ティンパノーガス神殿で永遠の結婚をしました。司式をしてくださったのは、タッカー長老でした。結び固めの部屋で、私は静かにこれまでの歩みを振り返っていました。すべては1967年、二人の若い宣教師が我が家の玄関をノックしてくださった日から始まりました。もしあの訪問がなかったなら、もし私たちが福音を受け入れていなければ、息子や孫たちの伝道も、沙弥の留学も、そしてこの神殿結婚もなかったことでしょう。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)まさに、この聖句のとおりでした。新郎新婦の周りには両家、シュルツ&タッカーご夫妻など多くの方々が集まり、言葉や国籍を超えて福音で結ばれた一つの大きな家族の絆がそこにありました。

85 年の人生を振り返ると、私が受けた祝福は数え切れません。宣教師との出会いから始まり、夫婦、家族、そして孫たちへと溢れんばかりの祝福に満たされた人生でした。福音を知り、学び、行い励み続ける人生ほど、幸せで最高な人生はありません。あの日、我が家へ訪れた二人の宣教師に、そして今日まで私たち家族を導いて下さった天の御父に、心から感謝しています。
注釈:
*1「ワード」_地域の教会が管轄する一定の地理的範囲「教区」のこと
「ステーク」_地元の会員の集まりである「ワード」が集まって構成される、より大きな地域的組織
*2「兄弟・姉妹」_会員同士が互いを家族のように呼び合う際に用いる呼称
*3「宣教師」_キリストの教えを宣べ伝える者(宣教師)の尊称として、男性を「長老(Elder)」、女性を「姉妹(Sister)」と呼称する
*4「バプテスマ」_古い自分を葬り、キリストの教えに従って生きる新しい自分として蘇ることを象徴するキリスト教の入信の儀式。全身を水に沈めて引き出される「浸礼」であり、人の死と埋葬、キリストの力による復活をも象徴している