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北部極東伝道部会長報告書

ポール・C・アンドラス 2007年8月11日更新 (アンドラス家の許可を得て掲載)

                                                 

アジアに住む天の御父の何十億もの子どもたちに福音を伝え始められるという、かつてない機会が開かれていたことを教会が認識したことで、1955年、大管長会と十二使徒定員会は、日本、韓国、沖縄を管轄する北部極東伝道部と、香港、台湾、フィリピン、グアムを管轄する南部極東伝道部を設置することを決定しました(拙稿「アジアのための運命の決断(Decision of Destiny for Asia)」参照)。1955年11月にヒルトン・A・ロバートソン会長が北部極東伝道部会長を解任された時、驚くべきことに、私がその後任として召されました。そのため私は、1955年12月9日から1962年7月19日まで、北部極東伝道部会長として奉仕する特権にあずかったのです。この期間中に、主によって、また宣教師と教会員全員の懸命な働きを通して成し遂げられた、教会の主な成果を以下に簡潔に記します。一つ一つの成果には、それぞれ詳しい歴史があります。将来の記録ではさらに詳しく述べたいと願っていますが、本稿では簡単に紹介するにとどめます。

伝道活動 1955年11月当時、教会には日本人会員が約1,100人、韓国人会員が約80人いましたが、沖縄には会員は一人もいませんでした。1948年に日本伝道部が再開されてから8年間に、1,036人の新たな日本人会員が教会に加わっていました。1955年には136人の改宗者がバプテスマを受け、宣教師一人当たりの平均改宗者数は1.7人でした。当時、統一されたレッスンプランはなく、宣教師たちは概して落胆していました。1956年、主は宣教師たちと私に霊感を与え、効果的なレッスンプランを作らせてくださいました。宣教師たちは熱意をもってそれを実行し、1957年には638人の改宗者が教会に加わりました。これは宣教師一人当たり平均6.44人を改宗したことになる数字でした。改宗者数はその後も増え続け、私が任を解かれた時点では、1962年中に1,500人を超える改宗者にバプテスマを施す見込みとなり、宣教師一人当たりの改宗者数は9人を超えていました。その結果、私が会長を務めている間に、5,000人を超える日本人、韓国人、沖縄の人々がバプテスマを受けました。これらの改宗者の大半は男性でした。初期には、日本と沖縄の宣教師たちは男性よりも多くの女性にバプテスマを施していましたが、この問題に重点的に取り組むことによって、その比率を逆転させることができました。韓国では当初から、改宗者の5人に4人が男性であり、この傾向は私が会長を務めた全期間を通じて変わりませんでした。日本、韓国、沖縄の教会において、歴史上初めて多数の改宗者を迎えることになりました。

『モルモン』『教義と聖約』『高価な真珠』の日本語版の出版 1955年12月、佐藤龍猪兄弟は、『モルモン経』の改訳と、『教義と聖約』および『高価なる真珠』の翻訳を完成させようとしていました。私は最初の伝道の際に伝道部翻訳委員会の一員を務めた経験がありました。当時、聖餐の祈りの言葉だけの翻訳についてでさえ、大管長会の最終承認を得るのにも何年もかかりました。その経験を踏まえ、私は大管長会に、佐藤兄弟の翻訳を検討し、最終承認を与える翻訳委員会を東京に設置する権限を私に与えてもらえるように頼みました。大管長会の承認を得ることができたことから、私は自分自身を委員長とし、佐藤龍猪兄弟、高木冨五郎兄弟、ベン・オニキ長老、ドン・ランドバーグ長老を委員とする委員会を組織しました。この委員会は1956年の春から夏にかけて数か月間、平日の毎日、数時間ずつ会合を開き、佐藤兄弟の翻訳を検討して最終稿を整えました。その結果、1956年12月には、佐藤兄弟による『モルモン経』改訳版1万部が印刷されました。1957年には、『教義と聖約』と『高価なる真珠』の初版が刊行され、革装丁の聖典合本の初版も2,000部も発行され一部3ドル未満で販売されました。この時、歴史上初めて、教会の標準聖典が日本語で利用できるようになったのです。

韓国と沖縄における伝道の開始 デルバート・ステープリー長老がホノルルで私を任命してくださった際、彼は「大管長会は、あなたがそうすべきだとの霊感を感じ次第、韓国と沖縄において伝道の業を進めることを望んでいる」と言われました。当時、韓国にも沖縄にも宣教師はいませんでした。私はすぐに韓国と沖縄を訪れ、住居の手配が整い次第、両地に宣教師を送るべきだとの強い促しを感じました。韓国では末日聖徒の米国軍人たちの助けと金浩稙会長の影響力により、また沖縄では末日聖徒の米国軍人たちと中村ノブ姉妹の助けにより、主が道を開いてくださいました。そして1956年4月、ドン・パウエル長老とリチャード・デットン長老が韓国に到着し、同じく1956年4月、リロイ・アンダーソン長老とサム・島袋長老が沖縄に到着。歴史上初めて、私たちの宣教師が韓国と沖縄で働き始めました。

韓国伝道部の設立 十二使徒評議会のデルバート・ステープリー長老が1955年11月1日にホノルルで私たちを任命してくださった際、私は、進めるべきだと感じたらすぐに韓国での業を進めるよう勧告を受けました。その時から、韓国における教会をできる限り速やかに築き上げたいという強い望みを抱き、韓国を管轄した6年7か月の全期間にわたり、この目的のために最大限の努力を惜しみませんでした。主は私たちを大いに祝福してくださり、韓国人会員の数は、1956年以前に末日聖徒の米軍人たちによって改宗した約60人を超える会員から、1962年までには1,600人を超えるまでに増えました。会員はソウルの4支部と釜山の1支部で集会を持ち、各支部には教会が所有する立派な集会所がありました。これは、朝鮮戦争の直後、国土と経済が大きな打撃を受け、生き残った人々が多大な苦しみの中にあった時期に成し遂げられたことでした。

これらの大きな成果は、主の祝福と、極めて厳しい生活環境の中で奮闘した忠実な宣教師および韓国人会員による、何年にもわたる大きな努力と犠牲を通して実現しました。実際のところ、韓国が北部極東伝道部の一地方部であった7年間に達成された成果があったからこそ、1962年に韓国伝道部を組織することができたのです。大管長会の承認を得て、私は1962年7月8日にソウルで開かれた集会において韓国伝道部を組織し、かつて北部極東伝道部で宣教師として働いたゲイル・カーを、韓国伝道部の初代会長に任命する大きな特権にあずかりました。

東京、大阪、ソウルにおけるステーク設立の基盤 ステープリー長老は、私を伝道部会長に按手聖任してくださった際、できるだけ早くステークを組織できるように、北部極東伝道部の業を進めるようと指示されました。1955年12月当時、東京には日本人の支部が二つ、大阪には一つしかなく、もちろんソウルには韓国人の支部が一つもありませんでした。それでも、最初のステークはこれらの人口の多い大都市に組織されるべきことは明らかでした。

そこで私たちは、東京にさらに三つの支部を計画的に組織しました。これらは既存の横浜にある支部とともに、自然に一つのステークへと成長することが見込まれました。同様に、大阪・神戸地域にさらに三つの支部を組織し、既存の大阪支部および京都支部とともに、自然に一つのステークへと成長することを目指しました。またソウルにも四つの支部を組織し、これらも一つのステークへ成長すると考えました。同時に、これらすべての支部のために集会所となる不動産を取得する作業も進めました。その後、東京ステーク、大阪ステーク、ソウルステークがアジア最初のステークとして誕生するのを見ることができたのは、このうえない喜びでした。

集会所用地の取得 伝道部会長の任期中、私は教会を代表して、日本、韓国、沖縄各地にある23か所の集会所用地を購入しました。最も重要な購入は東京の表参道の不動産で、教会の実質支出総額15万ドルで取得され、その後売却された結果、教会には実質利益総額2,400万ドルがもたらされました。表参道の不動産の売却益は、その後何年にもわたり、日本国内の多数の集会所用不動産の取得のために用いられました。これら23か所の不動産はすべて、不動産購入を支援する部門の職員が伝道部に一人もいない時期に取得されたものです。

支部の開設と閉鎖 教会が最も急速に発展するのは人口の最も多い中心地だと思われたにもかかわらず、1955年12月当時、東京には支部が二つ、大阪には一つしかなく、その一方で、比較的小さな都市には幾つもの支部がありました。これは、宣教師の数が非常に限られていたため、困難な状況でした。そこで私たちは、会員を完全に置き去りにすることのない範囲で、小都市の支部を計画的に閉鎖し、そこにいた宣教師を人口の多い中心地へ再配置することにしました。これは伝道活動の成果を高めた要因の一つとなり、東京、大阪、ソウルにおけるステークの組織を早めるうえでも非常に重要な要因となりました。

地方部と支部における地元指導者 1955年12月当時、ほとんど例外なく、地方部と支部の指導者の責任は宣教師が務めていました。会員が増えるという祝福を受け、会員の中から神権を受ける人が増えるにつれて、私たちは地方部と支部の指導者の職を日本人、韓国人、沖縄の人々が担うようにする計画に着手しました。私が任を解かれるころには、日本における指導者はほぼすべて日本人で、韓国と沖縄でも、多くの韓国人と沖縄の人々が指導者として責任を果たしていました。

多数の会員のメルキゼデク神権への聖任 より多くの会員が教会に加わり始めると、私たちは神権の昇進のための2年間の計画を設けました。これにり、年月を重ねる中で、非常に多くのメルキゼデク神権者が生まれました。

当時、男性を長老に聖任する権限を持つのは伝道部会長だけでした。そのため私は、100人をはるかに超える男性を自らメルキゼデク神権の長老に聖任するという大きな特権にあずかりました。1962年の私が伝道会長としての任を解かれる直前には、渡邉驩を定員会会長として、日本で最初の長老定員会を組織しました。

日本人の専任宣教師 ヴァイナル・G・マウス会長は、日本人会員を専任宣教師として召し、末日聖徒の軍人たちの献金によってその奉仕を支える計画を開始しました。この計画はヒルトン・A・ロバートソン会長に引き継がれ、私の在任中にはさらに大規模に行われました。これらの兄弟姉妹の多くは、専任宣教師としての奉仕を終えた後、伝道部各地の指導者となりました。七十人第一定員会の菊地良彦長老も、この計画によって専任宣教師として奉仕しました。

翻訳と印刷 1955年12月当時、日本語の教会手引きや資料は、ほとんどありませんでした。佐藤龍猪兄弟は、伝道本部で専任翻訳者として働いていましたが、その時間は『モルモン経』の改訳と、『教義と聖約』および『高価なる真珠』の翻訳に充てられていました。私たちは直ちに翻訳者、タイピスト、印刷担当者から成るスタッフを雇い、日本と沖縄の支部で用いる神権および補助組織の手引きや資料の大部分を日本語に翻訳し、印刷することができました。また、『聖徒の道』の発行も開始し、これは質の高い月刊誌へと発展し、日本と沖縄の会員を大いに強める力となりました。柳田聡子姉妹は、末日聖徒の賛美歌集とMIAレクリエーション歌集を翻訳し、私たちはそれらを専門の印刷所で印刷しました。これらは日本と沖縄の聖徒たちにとって、大きな霊感の源となりました。韓国で伝道を開始したとき、韓国語の資料は一つもありませんでした。金浩稙会長の指導の下、幾つかの教会資料の韓国語への翻訳と印刷を始めることはできましたが、日本での成果には遠く及びませんでした。

日本と韓国における宗教法人 エドワード・L・クリソルド会長は1948年、日本で教会の宗教法人を設立しました。日本が米軍占領下にあった初期の頃、日本政府は、宗教法人に関する日本法のすべての規定を厳格に遵守させることはしていませんでした。しかし1957年ごろから、政府は、複雑で、ほとんど履行不可能とも思える要件を完全に遵守するよう求め始めました。佐藤龍猪兄弟と私は、この問題と日本の当局者への対応に何年も苦闘し、ついに私が任を解かれる約1年前、教会を完全に法令遵守した状態にすることができました。韓国では、金浩稙兄弟の影響力があって初めて、教会を宗教法人として設立することができました。それでも手続きは非常に困難で、教会法人が韓国政府によって正式に受理され、承認されるためには、天からの奇跡的な助けが必要でした。

末日聖徒軍人の組織 1955年から1962年までの間、私たちの末日聖徒米軍人組織の会員数は、約1,500人とほぼ一定でした。これらの会員は日本、韓国、沖縄各地で地方部とグループに組織されていたため、私たちには、現地の日本人会員のための組織と、末日聖徒の米軍人会員のための組織という、並行する二つの組織がありました。幸いにも私たちは、伝道部の末日聖徒米軍人調整役を務め、地方部やグループの指導者となる有能な男性たちに恵まれました。そのため、彼らは実質的に自分たちで組織を運営し、私は必要に応じて支援しました。末日聖徒の米軍人たちは、日本人、韓国人、沖縄の人々を教会に導き、専任宣教師として召された日本人、韓国人、沖縄の兄弟姉妹を支援し、さらに伝道部建築基金に惜しみなく献金することによって、日本、韓国、沖縄の教会に大きく貢献しました。

北部極東伝道部の宣教師たち 伝道部会長に召されたとき、私は自分の指導下にあるすべての宣教師が、無事に伝道を全うし、名誉ある帰還を果たせるようにすることを目標に掲げました。残念ながら、在任期間の終わり近くに二人の宣教師を破門する必要があり、この願いを完全に実現することはできませんでした。しかし、その二人が後に再びバプテスマを受けて教会に戻ったことを、喜んで報告します。私たちの下では、合計500人を超える宣教師が奉仕しました。アンドラス姉妹と私は、彼ら一人一人を永遠の友人だと思っています。主の王国を築くためにともに奉仕したことによって、私たち全員の間には、永遠に続く友情と愛の絆が結ばれました。もちろん私たちには身びいきがありますが、ともに奉仕する特権にあずかった北部極東伝道部の宣教師たちは、並外れて優れた人々だと感じています。私たちの宣教師のうち44人が伝道部会長に召され、さらにそのうち菊地良彦長老、L・エドワード・ブラウン長老、サム・島袋長老の三人が中央幹部に召されたことを、うれしく思います。

フランシス・パーカー・アンドラス姉妹 私がこれまでに行った中で最も賢明で、最高だったことは、1952年7月5日にハワイ神殿でフランシス・パーカーと結婚したことです。私が北部極東伝道部を管理するよう召されたとき、彼女は私の伝道の同伴者として召されました。彼女は日本、韓国、沖縄で主の王国を築くうえで、計り知れない貢献をしました。1955年12月9日に私たちが伝道地へ戻った際、28か月の息子ヴォーンと、16か月の息子チャールズ(チャック)を連れて行きました。その後6年7か月10日間にわたり、アンドラス姉妹は妻として、また助け手として私を支え、家族が増えていく中で子どもたちを育てました。娘のラヴァーナ・レフアは1956年8月16日に、息子のジェイ・デビッドは1959年3月2日に、娘のエヴァ・マイレは1960年9月26日に、それぞれ東京で生まれました。

アンドラス姉妹は、妻および母親として家族を養い育てただけでなく、東京の伝道本部を運営するうえで、家事に関する面も取り仕切りました。家事スタッフを雇って訓練し、大きな2階建ての伝道本部を清潔かつ衛生的に保つよう監督しました。また調理スタッフを雇って訓練し、家族と伝道本部に割り当てられた6人の宣教師に、栄養ある食事を提供してもらえるよう監督しました。彼女は、献立を作り、買い物もしました。各地の伝道地で病気になり、療養のため伝道本部へ運ばれてくる宣教師たちの世話をする看護責任者も務めました。そのようなことは頻繁にあり、同時に6人から8人もの宣教師が伝道本部で療養していることも珍しくありませんでした。

アンドラス姉妹には、人に助言を与えることのできる生来の優れた賜物があります。人々は彼女と話し、自分の問題を打ち明け、助言を求めることを好みました。この生来の賜物は、宣教師たちにとって大きな恵みとなりました。私が事務所で、あるいはどこにいるときでも、宣教師たちを一人ずつ面接している間、アンドラス姉妹は私の面接を待っている宣教師たちと話をしていました。長年の奉仕を振り返ると、アンドラス姉妹は、彼らとの気さくな会話によって宣教師たちを励まし、鼓舞することで、私が正式な面接によって行った以上の働きをしたことは、疑いありません。

アンドラス姉妹は会員を強めることによって、主の王国を築くうえでも大きく貢献しました。北部極東伝道部において扶助協会の会長を務めるとともに、初等協会の会長も務めました。彼女は私とともに日本、韓国、沖縄各地を旅し、教会の女性たちを教え、鼓舞しました。

日本、韓国、沖縄で神の王国を築くためにアンドラス姉妹が果たした貢献は、あまりにも大きく、言葉で十分に表すことはできません。彼女は私たち全員にとって、何と大きな祝福だったことでしょうか!

回顧 71年前の1945年、私は米国陸軍航空隊の操縦士として初めて日本へ行き、米国占領軍の一員として1年間日本に駐留しました。68年前の1948年、第二次世界大戦後に日本伝道部が再開された際、日本に召された最初の5人の宣教師の一人として再び日本へ行き、3年間宣教師として奉仕しました。67年前の1949年、フランシスは日本への宣教師として召され、2年間奉仕しました。61年前の1955年、フランシスと私は二人の幼い息子を連れて日本へ戻り、6年7か月10日間にわたって北部極東伝道部を管理する任務を果たしました。その間に、下の3人の子どもが東京のセブンスデー・アドベンチスト病院で生まれました。その後、時が来ると、5人の子ども全員が日本で伝道するよう召されました。ヴォーンは仙台伝道部と札幌伝道部で、チャックは名古屋伝道部で、ラヴァーナは東京南伝道部で、ジェイは福岡伝道部で、エヴァは岡山伝道部で奉仕しました。私たちの人生で最もすばらしい経験は、日本、韓国、沖縄で得たものです。宣教師たちや、日本人、韓国人、沖縄の兄弟姉妹とともに神の王国を築いたこれらの経験によって、永遠に続く友情と愛の絆が結ばれました。この先、これらすべての素晴らしい友人たちとの再び交流できる機会を、大きな喜びをもって待ち望んでいます。私たちはイエス・キリストの福音に心から感謝しています!