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編集者注:末日聖徒イエス・キリスト教会の日本における教会歴史125周年を記念する「日本教会歴史125周年」シリーズでは、会員や家族が、日本における「主の御手」を示す個人的な経験を分かち合っています。本稿の執筆者は、戦後日本における教会の発展に深く関わったポールとフランシス・アンドラスの息子であるヴォーン・B・アンドラスです。ポール・C・アンドラスについて詳しく知りたい方は、2019年の日本ニュースルームの記事「ポール・C・アンドラス兄弟が逝去される」も併せてお読みください。

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1949年11月、伝道本部を奉献するためマシュー・カウリー長老が東京を訪れた際の集合写真。カウリー長老(前列左から2人目)、妻エルヴァ(その右)、エドワード・L・クリソルド伝道部会長(前列中央)、妻アイリーン(その右)、佐藤龍猪(後列左端)、フランシス・パーカー(前列左端)、ポール・アンドラス(後列中央)。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.80年以上にわたり、日本はわたしの家族の物語に深く織り込まれてきました。四世代を振り返ると、数え切れないほどの経験と人とのつながりが、一つの素朴な真理を教えてくれたことに気づきます。それは、主の影響は細部に及ぶということです。
わたしたち家族と日本とのつながりは、両親、兄弟たちとその家族、妻とわたし、子どもたち、そして今では孫たちの人生にまで及んでいます。その歩みには、目を見張るような出来事、思いがけない出会い、深い憐れみ、そして困難な試練がありました。それらすべてを通して、天の御父が御自分の子どもたちの人生にどれほど深く関わっておられるかが分かります。但し、そのことに気づくのは何年も後になってからという場合も少なくありません。
わたしやわたしの兄弟たちが持つ日本についての最初の記憶は、歴史に残るような大事件ではありません。おもちゃの消防車、セミ、水漏れするシャワーを直してくれた親切な男性、そして家を出入りする宣教師たちです。そうした何げない子ども時代の記憶の多くが、日本における教会歴史の重要な一章と同時に刻まれていたことを知ったのは、ずっと後のことでした。
わたしたち家族と日本とのつながりは、両親が出会う前から始まっていました。
わたしの母フランシス・マルヒア・パーカー・アンドラスは、1923年6月6日にハワイのホノルルで生まれました。それは、日本で関東大震災が発生する数か月前であり、教会が1924年に日本での最初の伝道活動を中止する1年余り前のことです。ヒーバー・J・グラントは1901年に自ら日本伝道部を開き、1924年には教会大管長を務めていました。
1935年、母が12歳のとき、ヒーバー・J・グラント大管長がホノルルを訪れ、米国本土外で最初となる教会のステークを組織しました。母の父アーサー・K・パーカーは、そのステーク会長会の第二顧問として支持されました。
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1935年6月、ヒーバー・J・グラント大管長はオアフ・ステークを組織し、ラルフ・E・ウーリー(後列右から3人目)を会長、エドワード・L・クリソルド(後列右から2人目)を第一顧問、アーサー・K・パーカー(後列右端)を第二顧問に召しました。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.母によれば、1941年12月7日の日曜日の朝、自宅の屋根に上った母は、真珠湾を爆撃するために飛来した日本人パイロットと目が合ったそうです。真珠湾では、母の父が船大工として働いていました。
1947年末、教会は日本での伝道活動を再開すると発表しました。最初に召された5人の宣教師は、ハリソン・T・プライス、レイモンド・C・プライス、ウェイン・マクダニエル、コージ・岡内、そして父ポール・C・アンドラスでした。1948年6月に来日する前に、5人は全員ハワイで日本語を学び、日系アメリカ人を教えました。

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戦後、日本伝道部に最初に召された5人の宣教師。来日前の1948年6月にハワイで撮影された写真。エドワード・L・クリソルド伝道部会長の妻、アイリーン・ピクネル・クリソルドも写っている。中央に立っているのがポール・アンドラス。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.当時の父の日記には、アーサー・K・パーカー会長宅で開かれた集まりに出席し、そこではパーカー会長の娘フランシスのためにサプライズパーティーが催されたと記されています。
当時、両親のいずれもが、日本がその後の彼らの人生をこれほど大きく形作ることになるとは、知る由もありませんでした。
母は日本伝道部の宣教師として召され、1949年4月に来日しました。当初の召しはニュージーランドでしたが、出発の数週間前に赴任地が日本へ変更されたのです。母は伝道期間の大半を名古屋と新潟で過ごしました。2年間奉仕した後、1951年4月にホノルルへ帰還しました。
| Temple Square is always beautiful in the springtime. Gardeners work to prepare the ground for General Conference. © 2012 Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved. | 1 / 2 |
1952年初め、天父の計らいによる巡り合わせにより、フランシス・パーカーのもとに、ソルトレーク・シティーにいたポール・アンドラスから電話がかかってきました。ポールは電話で結婚を申し込んだのです。フランシスは、30分後にもう一度電話して欲しいと頼み、再び電話がかかってくると、その申し出を受け入れました。二人は1952年7月5日にハワイ・ライエ神殿で結婚し、オアフ島カイムキに最初の家庭を築きました。わたしは1953年に生まれ、弟のチャックが1954年に続きました。

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1952年7月5日、ハワイ州ライエでの結婚式当日のポール・アンドラスとフランシス・パーカー。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.日本で過ごした幼少期
1955年12月、父が新設された北部極東伝道部(日本、韓国、沖縄を管轄)を管理する召しを受け、わたしたち家族は東京に到着しました。当時、父は31歳、母は32歳、わたしとチャックはそれぞれ2歳と1歳という若い家族でした。その後、両親が伝道部の指導者として奉仕している間に、下のラヴァーナ、ジェイ、そしてエヴァ・マイレが全員東京で生まれました。広尾の伝道本部は、わたしたちの世界の中心となりました。
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当時の歴史記録には、伝道活動が急速に広がったこと、教会の出版物が日本語で読めるようになったこと、地域全体で地元の指導者が強められていったことが記されています。父は、戦後日本の教会を形作る助けとなった多くの発展に深く関わっていました。しかし、わたし自身の記憶はもっと単純なものです。
新たに翻訳された日本語版『モルモン経』の最初の本が伝道本部に届いたとき、チャックとわたしの心をはるかに強く引きつけたのは、出版社の社長が持ってきてくれたおもちゃの消防車でした。自分が日本における教会の発展の歴史的な節目を目撃していたことに気づいたのは、何年も後のことです。
数年もすると、チャックとわたしは隣に住む「オクムラ君」と親しい友達になりました。宣教師たちがレッスンの練習をするのを何百回も見ていたわたしたちは、伝道本部の庭の芝生で、彼を教えることにしました。一番好きだったのは、預言者と使徒という「土台」を取り外し、フランネルボードの建物が崩れるのを見ることでした。

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1950年代後半、広尾。友人の「オクムラ君」(左)とヴォーン、チャック・アンドラス。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.伝道本部にはかなり広い庭がありましたが、もっと冒険したいときには、道の向かいに有栖川公園がありました。わたしたちは何年もの間、公園の隅々まで探検しました。春にはオタマジャクシを、夏にはセミを捕りました。1950年代には、脇道はすべて未舗装で、建物の多くは昔ながらの日本建築の木造家屋でした。ほかの燃料が不足していたため、木炭を燃料に走るタクシーもまだありました。伝道本部には3人のお手伝いさんがいて、両親が教会の仕事に携わっている間、よくわたしたちの面倒を見てくれました。ラヴァーナは八重子と強い絆で結ばれていました。八重子は後に渡邉 驩(かん)と結婚した人で、彼女たちの絆は今も続いています。

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1950年代後半、広尾。今井兄弟姉妹とヴォーン、チャック・アンドラス。今井一男兄弟は伝道本部で働き、後に日本で尊敬される教会指導者となった。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.宣教師たちは絶えず出入りしていました。中には、アンドラス家の子どもたちを相手に日本語の力を試す宣教師もいました。日本語で話しかけて、わたしたちが日本語で答えれば自信を持ち、英語で答えれば、もっと練習が必要だと彼らは分かったのです。
ほかにも様々な訪問者がいましたが、子どもだったわたしたちには、それが誰なのか必ずしも分かっていませんでした。ラヴァーナはこう振り返ります。「とりわけ親切で温かい方がいて、いつも時間を取ってわたしたち子どもに話しかけてくださっていました。彼は伝道本部の住所を暗記し、それに節を付けて歌うように唱えてくれました。それを聞くと、わたしたちはいつも笑顔になりました。その親切な方は、ゴードン・B・ヒンクレー長老でした。ヒンクレー長老ご夫妻が両親と親しくしてくださったことに感謝しています。」
ある日、父とヒンクレー長老が出かけようとしていたときのことをわたしは覚えています。ヒンクレー長老は、シャワーから水が漏れているので修理したいと言いました。そして父に、ペンチとパッキンがないか尋ねました。父は、ペンチはあるものの、パッキンはないと答えました。するとヒンクレー長老は、伝道本部の脇にタイヤのチューブがあるのを見かけていたので、それをはさみで切り抜いてパッキンを作ると言いました。父たちは、出かける前に2階へ上がってシャワーを修理したのです。

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1955~1962年の間に沖縄を訪問した際のゴードン・B・ヒンクレー長老(左から3人目)とアンドラス会長夫妻(左端)。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.日本はわたしたちの中に生き続けた
わたしたち家族の伝道が1962年7月に終わったとき、東京での生活はほぼ7年に及んでいました。成人するまで十分には気づかなかったのですが、日本はわたしたち一人ひとりの中に染み込んでいました。エヴァ・マイレは次のように記しています。「わたしは日本で生まれました。家族がハワイに戻るまで、2歳近くまで日本で暮らしました。母はハワイ出身者で、わたしは昔から自分のハワイのルーツと強いつながりを感じてきました。また、日本人ではありませんが、日本とも強くつながっていると感じます。その理由の一つは、日本にいる間に母のおなかの中でわたしが育っていたことです。日本の感覚、味わい、美しさがわたしの血肉に染み込んだのです。初めてわたしを見た母が、日本人の赤ちゃんだと思ったほどでした!」
アンドラス家の5人の子どもたちは、全員が宣教師として日本に戻り奉仕しました。
わたしは1972年から1974年まで日本東部伝道部で奉仕しました。札幌に着いて最初の週に教会へ行くと、熊谷たま乃姉妹に会いました。熊谷姉妹は1908年に日本で教会に入り、1949年、北海道での伝道活動再開のために父と同僚が札幌駅に到着した際に二人を迎えた、あの熊谷姉妹でした。
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チャックは名古屋伝道部(1973~1975年)、ラヴァーナは東京南伝道部(1982~1983年)、ジェイは福岡伝道部(1978~1980年)、エヴァ・マイレは岡山伝道部(1981~1983年)で宣教師として奉仕しました。振り返ってみると、幼少期を過ごした国が、わたしたち一人ひとりの人生をこれほど決定づける存在になったことは驚くべきことです。
世代をつなぐ糸
年月が過ぎても、そのつながりは続きました。
チャックはキット・デュランと結婚しました。サーフボード製作で成功を収め、日本人のサーファーやサーフボード会社と幅広く仕事をしました。ある日、彼が電話で日本語を話しているのを聞きましたが、半分しか理解できませんでした。何語を話していたのか尋ねると、彼は「今のは、サーファーが喋る日本語だよ」と答えました。
ラヴァーナは今でも日本に特別な思いを抱いており、夫のリック・ステイプラーと共に日本を訪れることを楽しみにしています。賛美歌 『心に平和と(Lord, Dismiss Us with Thy Blessing)』 は、日本で親しまれている童謡 『むすんでひらいて』 と同じメロディーで歌われます。そのため、この賛美歌を耳にするたびに、幼い頃に覚えた日本語の歌詞や手遊びの動作が鮮やかによみがえると彼女は語っています。
ジェイと妻ナラニはハワイアン航空の客室乗務員で、日本で多くの経験を重ねています。ジェイが日本の著名人の演説を暗記していると聞き、詳しく尋ねると、彼はすぐさま、日本の天皇による最も有名な演説の一つを引用し始めました。
エヴァ・マイレと夫スティーブは、日本各地を旅行することが大好きです。最近の旅行後、彼女はこう話しました。「タクシーの助手席に乗っていたとき、日が沈み始めたので、『ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む』と歌い始めました。最初は驚いていた運転手さんも、途中から一緒に歌って最後まで歌いました。それは、日本の心が毛布でわたしたちを温かく包んでくれたような、つながりと一体感を感じる、心に残るひとときでした。」
母は、わたしがこれまで知る中でも最高の料理上手の一人でした。ラヴァーナとエヴァ・マイレは今も、母から教わった料理、ハワイ料理、そして日本料理のレシピを使い続けています。家族の伝統の一つは、毎年正月を迎える頃に集まり、家族、友人、近所の人々のために、のり巻きを100本以上と、大皿いっぱいのいなり寿司を作ることでした。これは何十年も続き、母が98歳になる年まで行われました。
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1982年、わたしは仕事のためにロサンゼルスへ引っ越しました。新しいワードのビショップに勧められ、周辺にある幾つかのヤングシングルアダルト・ワードを訪ねることにしました。3回目の日曜日、スタジオ・シティー第1ワードでショーナ・ピュージーに出会いました。教会の集会後、何時間も話す中で、ショーナの父ジーンが、若い頃にわたしの両親とともに日本で宣教師として奉仕していたことが分かりました。わたしたちは12日後に婚約し、1983年3月に結婚しました。娘のジェシカ・マリコ(真光子)は1984年に、息子のパーカーは1987年に生まれました。
2001年、ブリガム・ヤング大学は、教会の日本伝道開始100周年を記念する式典をユタ州プロボで開催しました。ショーナとわたしは、彼女の両親ジーン、シャーリーとともに出席しました。ある夕食会で、何年も前に福岡伝道部で奉仕していた二人の男性と同じテーブルになりました。そのときは、ただ楽しく会話を交わしただけのことだと思っていました。
ジーンは長年、進駐軍の一員として、また後には宣教師として日本で奉仕してから50年以上を経て、もう一度日本へ行きたいと話していました。2006年、ショーナとわたしは彼女の両親とともに、2週間の日本旅行に出かけました。ある晩、ジーンが伝道時代から知る福原家と夕食を共にするため電車で向かう途中、駅で二人の若い宣教師に会いました。そのうちの一人は、日本に来てまだ3週間でした。わたしたちは数分間話し、二人の幸運を祈って別れ、その後、すばらしい夕食の時間を過ごしました。
その後、さらに思いがけないつながりが生まれました。息子パーカーが日本名古屋伝道部への召しを受け、2007年にプロボ宣教師訓練センター(MTC)へ入所したとき、配属されたMTC支部のノーマン、シャーリー・トン夫妻から、思いがけずメールが届きました。二人はともに1950年代、日本でわたしの両親の下、宣教師として奉仕していたのです。
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2009年、パーカーの伝道終了に合わせてショーナとわたしが日本を訪れたとき、もう一つのつながりが一巡して元に戻りました。2001年のBYUでの記念式典で出会った二人の男性は、パーカーの伝道部会長となった人たちでした。最初がゲーリー・E・スティーブンソン、次がブルース・トラベラーです。パーカーが日本に到着して間もなく、リサ・スティーブンソン姉妹から、無事に到着したことを知らせる電話がありました。そして、彼女の母方がアンドラス家の出身だと知り、わたしたちは驚きました。
2006年に駅で少しだけ会った宣教師も、わたしたちの物語に再び登場しました。パーカーが最初の赴任地である静岡に着き、同僚のキューテル長老に家族の写真を見せると、彼はこう答えました。「あっ、この人たちは、日本に来たばかりだった1年前に、東京の駅で会った人たちです。」
2014年、パーカーは東京南伝道部で奉仕したニコール・エドストロムと結婚しました。大学院修了後、日本企業からの申し出を受け、二人はこれまで3度、東京で暮らしてきました。現在も東京で子どもたちを育てており、4人の子どものうち3人は地元の学校に通っています。パーカーは東京第2ワードのビショップとして奉仕しています。日曜日には、日本東京神殿の隣にある教会堂で礼拝します。そこは、わたしが子どもの頃に遊んだ有栖川公園の向かいです。この状況に初めて気づいたとき、わたしはほほ笑まずにはいられませんでした。わたしたち家族が東京に到着してから70年後、アンドラス家の新たな世代の子どもたちが、同じ地域で思い出を築いているのです。
学んだこと
わたしたちの両親は、ほぼ7年間にわたって伝道部の指導者として奉仕しました。父が重い教会の責任に全力を注ぐ中、5人の幼い子どもたちは、外からは必ずしも見えない苦労も経験しました。ハワイへ戻ると、両親は7人家族を養うため、事実上ゼロからやり直さなければなりませんでした。主の業を前進させるために必要なことはすべて成し遂げられましたが、そのために個人的な代償も伴いました。振り返ると、家族の人生に主の御手があったことが分かります。同時に、その道のりにあった困難や試練も、わたしたちの旅の大切な一部だったと気づきます。祝福は確かなものでした。犠牲もまた確かなものでした。その両方が、今のわたしたちを形作ったのです。
続いていく物語
今年3月、東京に住むパーカーとその家族を訪ねました。教会の集会に出席していると、一人の姉妹が近づいてきました。
「アンドラス家の方ではないですか?」と彼女は尋ねました。
彼女はテリー・チャン・ウェバーと名乗りました。何年も前、わたしたちの家族同士が知り合いだったカネオヘ・ワードの人です。彼女は、夫のラリー・ウェバーとともに東京でシニア宣教師として奉仕していると話した後、思いがけないことを語りました。
「昨夜、あなたにばったり会い、あなたの家族が日本で経験したことについて記事を書くようお願いする夢を見たのです。」
これが、その記事です。
父は2019年に亡くなり、母も2022年に亡くなりました。今では、わたしも兄弟たちも全員が60代、70代です。それでも、両親が築いた人とのつながりは、今も世代を越えて波紋のように広がり続けています。

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2025年10月、日本東京神殿にて。ヴォーンとショーナ・アンドラスの孫たち。2026 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.お気に入りの写真の一つに、8人の孫全員が日本東京神殿の前に並んでいるものがあります。4人は娘のジェシカと夫のスペンサー・ヘイルの子どもたちで、他の4人は息子のパーカーと妻のニコールの子どもたちです。多くの意味で、その一枚は、わたしがどんな文章を書くよりも、家族と日本との関係を雄弁に物語っています。その写真を見ると、ハワイ、東京、札幌、名古屋、有栖川公園、伝道本部、宣教師たち、教会員、友情、そして80年以上にわたって家族と日本を結びつけてきた数え切れないほどの経験に思いをはせます。祝福と試練の両方を通して、主が様々な形で家族を導いてくださったことを思います。そしてもう一度、主の影響は細部に及んでいることを思うのです。
アロハ・ゴザイマス。