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第二次世界大戦で家族を失った沖縄の二人の元ステーク会長,悲しみから平安―そして神殿と互いの旅路を共有する

第二次世界大戦でそれぞれ父親を失った沖縄の元教会指導者、神殿が自分たちの土地に恵みをもたらしてくれることに喜びをかみしめる

2023年11月10日(金)、沖縄神殿の敷地を歩く沖縄の開拓者的指導者、長嶺ケンセイ兄弟と屋冨祖アキラ兄弟。写真:ジェフリー・D・オールレッド、© 2023 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.

沖縄―高校生であったとき、屋冨祖アキラ兄弟は沖縄で書店から出た後,末日聖徒イエス・キリスト教会の二人の宣教師と遭遇した。

英語が話せなかったので、彼は二人と目を合わせないようにした。しかし、二人の宣教師は目をそらさずに、「丁寧な日本語」で彼に話しかけ、その晩、教会で行われるイベントに招待した。

アメリカ人からの招待ではあったが、屋冨祖兄弟はその招待を受け入れた。

父親が第二次世界大戦で戦死したとき、彼はまだ3歳であった。小さな子供であったが、彼はかき乱した母親に、自分が大きくなったら父の仇を取ると約束した。「アメリカ人は皆敵だと思っていました」と屋冨祖兄弟は振り返る。

しかし、とても驚いたことに、そのアメリカ人宣教師に会ったとき、彼らには何か違うものがあり、彼らは使者であり敵ではないことが彼には分った。「宣教師たちは自転車に乗っていました。とても幸せそうに見えました。そして、すべての人に話しかけていました」と屋冨祖兄弟は振り返る。

宣教師たちの業に関心があることを示すと、彼らは屋冨祖兄弟に「ジョセフ・スミスの最初の示現」について伝えた。14歳の少年は、うそは言わないことを屋冨祖兄弟は知っていた。「わたしはこのメッセージは大切なメッセージであると感じました」と語った。

2023年11月10日(金)、長嶺ケンセイ兄弟と屋冨祖アキラ兄弟、沖縄にて。写真:ジェフリー・D・オールレッド、© 2023 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.

それから数週間の間、屋冨祖兄弟は放課後毎日宣教師を訪問した。「わたしはたくさんの質問をし、彼らと話をするのが大好きでした。」

屋冨祖兄弟は、1か月後の1959年1月の暴風の日にバプテスマを受けた。

悪天候であったため、宣教師たちは屋冨祖兄弟にバプテスマを延期することを求めたが、彼は断った。そこで、彼は3人の宣教師たちとともに海に入った。一人がバプテスマを施し、もう二人の宣教師がバプテスマを施す宣教師と屋冨祖兄弟が風と波の中で足がちゃんと海底に着くように助けた。

1961年に、屋冨祖兄弟はChurch College of Hawaii(現在のBYUハワイ)に通った。その後、日本極東伝道部の宣教師として奉仕する召しを受け入れた。

屋冨祖兄弟は伝道から帰還すると、富原キワコ姉妹と結婚し、当時、沖縄の最初の日本人の地方部会長として奉仕していた長嶺ケンセイ会長から支部会長として奉仕するよう依頼を受けた。

「わたしは以前から計画をすでに聞いていたような感じがしました」

日本の短い教会歴史によれば、末日聖徒イエス・キリスト教会の最初の宣教師が日本の東京に上陸したのは1901年であった。およそ45年後、第二次世界大戦中、アメリカ人兵士が沖縄の琉球諸島に到着した最初の教会員であった。

1945年7月8日、「沖縄戦」がちょうど終結した後、そのアメリカ人の兵士たちが教会の集会や大会のために定期的に集会を開き始めた。1955年、十二使徒定員会会長であったジョセフ・フィールディング・スミス会長が沖縄を訪れて、福音が宣べ伝えられるようにその地を奉献した。1956年4月、初の末日聖徒の専任宣教師が沖縄に到着した。

長嶺兄弟は、1957年に友人たちと宣教師の英会話教室に通い始め、宣教師と出会った。

長嶺兄弟はすぐに当時MIA、あるいは「相互発達協会」として知られていた教会の青少年の活動に参加し始めた。

2023年11月10日(金)、沖縄神殿の敷地を歩く沖縄の開拓者的指導者、長嶺ケンセイ兄弟と屋冨祖アキラ兄弟。写真:ジェフリー・D・オールレッド、© 2023 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.

長嶺兄弟の英語は上達しなかったが、彼は末日聖徒の青少年との集会に定期的に参加し続けた。彼は教会の聖歌隊に加わった。やがて、彼は姉妹宣教師からレッスンを受けた。

「わたしは宣教師から救いの計画について聞いたとき、とても感動し、御霊を強く感じました。わたしは以前その計画を聞いたことがあるような気持ちがしました」と長嶺兄弟は語った。

長嶺兄弟の家族、特に母親はすぐに心配した。

屋冨祖兄弟同様、長嶺兄弟も戦争で父親を亡くし、兄も亡くしている。長嶺兄弟の母親は彼がアメリカ合衆国とつながりがある教会をどのように受け入れることができるのか分からなかった。

日曜日の朝、彼の家族は彼が教会に行くのを止めさせるために長嶺兄弟の部屋のドアを見張るようしていたが、彼は窓から出た。

家族の反対にもかかわらず、長嶺兄弟は1958年、21歳のときにバプテスマを受けた。

地元の教会員が長嶺兄弟を教え、就職先を見つけられるように助けた。長嶺兄弟は那覇支部会長会で奉仕する召しを受け入れた。時々、彼は支部の集会の後、若い末日聖徒の女性を車で家まで送った。彼らの結婚を祝う写真は教会の機関誌『聖徒の道』に掲載された。

当時、日本には神殿がなかったため、長嶺兄弟と新婦である長嶺(旧姓:平良)ヒロコ姉妹はハワイまで行った。そこで、結び固めを受けるとともに、長嶺兄弟の父親と兄のために神殿の儀式を行った。

長嶺兄弟は沖縄で最初の地方部会長、後にステーク会長として奉仕した。屋冨祖兄弟は顧問として奉仕し、その後、2番目のステーク会長として奉仕した。

1988年に、長嶺兄弟は沖縄の末日聖徒を代表して、大管長会に手紙を書いた。手紙は沖縄地域の「エチケット、音楽、詩、および舞踊」について詳細を説明し、宣教師と会員の教育目標について強調するものであった。「沖縄の会員は近い将来にこの島に自分たちの神殿を持つという大きな願望と望みを持っています」とつづり、さらに次のように付け加えた。「イエス・キリストの福音の回復に関するわたしたちの知識により、わたしたちは喜びと将来に対する大きな希望で満たされています。」

35年後に、それらの祈りが答えられることになる。2023年11月12日(日)に、ゲーリー・E・スティーブンソン長老が日本沖縄神殿の奉献を行う。

2023年11月10日(金)、沖縄における教会の初期の頃について話す沖縄の初期の指導者、長嶺ケンセイ兄弟と屋冨祖アキラ兄弟。写真:ジェフリー・D・オールレッド、© 2023 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.

沖縄のための神殿

教会に加入した後、屋冨祖兄弟はアメリカ人兵士たちの助けを受けて、Church College of Hawaiiに行った。また、アメリカ人兵士たちはその地域での集会所建設の手伝いも行った。

故十二使徒定員会会員のニール・A・マックスウェル長老と故十二使徒定員会会長補佐のボイド・K・パッカー会長は1940年代に米軍で従軍している際、沖縄に駐留した。主の使徒として、二人とも後に沖縄を訪問している。

屋冨祖兄弟と長嶺兄弟は、この二人の使徒が沖縄は特別な場所であると証したのを聞いたことを振り返る。

パッカー会長が沖縄を訪れた際に、パッカー会長はこの二人の指導者と別々に会った。その後すぐに、長嶺兄弟は東京神殿会長として奉仕する召しを受け、屋冨祖兄弟は日本広島伝道部会長として奉仕する召しを受けた。

この二人の兄弟は、戦争で生じた苦痛からイエス・キリストの教会での奉仕と主の使徒の一人からの呼びかけに応えることで見い出した喜びと希望と平安まで、完全に繋がっていることを知っていた。

長嶺兄弟は、何年にもわたって、この地に神殿が立つことを待ち望んでいたことを知っている先祖の声を感じてきたと語った。

沖縄の平和祈念公園には、第二次世界大戦中に沖縄で亡くなったすべての人の名前が刻まれている。記念碑には日本人の名前だけでなく、合衆国の兵士の名前も刻まれている。記念碑にはパッカー会長とマックスウェル長老の友人の名前もある。長嶺兄弟の父親と兄、および屋冨祖兄弟の父親もまた記念碑に名前が刻まれている。

「約24万人の人々が沖縄で亡くなりました。わたしはこの沖縄の地はこれらの先祖や兵士たちの血によって聖められたと思っていますし、そう感じています。ですから、今、沖縄に主の宮をいただくこと、平和の象徴をいただくことはとてもすばらしいことです。わたしたちは主の神殿を愛する民になりたいです」と長嶺兄弟は語った。

2023年11月10日(金)、沖縄神殿の敷地を歩く沖縄の開拓者的指導者、長嶺ケンセイ兄弟と屋冨祖アキラ兄弟。写真:ジェフリー・D・オールレッド、© 2023 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.

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