「ジョセフ・スミス」デビッド・ロジャーズ画、コミュニティ・オブ・クライスト図書館・文書館の厚意により掲載,ミズーリ州インディペンデンス
ジョセフ・スミスは,キリストの教会(後に,末日聖徒イエス・キリスト教会1と呼ばれるようになった)を組織した日,1830年4月6日に,集まった人々に啓示の言葉を公表しました。神の声がその中で次のように宣言しています。「見よ,あなたがたの間で記録を記さなければならない。そして,その記録の中で……あなた〔ジョセフ・スミス〕は聖見者……と呼ばれなければならない。」(教義と聖約21:1)
聖見者の意味
「聖見者」は,若い預言者や当時の人々にとって,どのような意味があったのでしょうか。ジョセフは聖書を読む家庭で育ちました。聖書には,聖見者のことが繰り返し述べられています。例えば,サムエル記上で,記録者はこう説明しています。「昔イスラエルでは,神に問うために行く時には,こう言った,『さあ,われわれは先見者〔訳注─英語はseerで,聖見者のこと〕のところへ行こう』。今の預言者は,昔は先見者といわれていたのである。」(サムエル上9:9)(英語)
また聖書には,つえ,3さおに掛けられた真鍮の蛇4(広く医療の象徴となった), エポデ5(二つの宝石を入れた祭司の衣装の一部),ウリムとトンミム6など,人々が 物理的な物を用いて霊的な示しを受けたことも述べられています。
霊的な示しを「見ること」や「聖見者」はアメリカの家族の文化の一部であり,その中でジョセフ・スミスは育ったのです。聖書の言葉と,移民によって北アメリカに持ち込まれた英国系ヨーロッパ文化の融合の両方から大きな影響を受けた,19世紀初頭の人々の一部は,天与の才のある人は聖見者の石など物理的な物を通して「見る」すなわち霊的な示しを受けることができると信じていました。7
若いジョセフ・スミスは,なくした物や隠されている物が聖見者の石を使えば見えるという,当時の民間の考え方を受け入れました。古代に神が物理的な物を用いて民の信仰を一つに集中させたり,霊的に交流を図ったりされた話が 聖書に述べられており,ジョセフや他の人々は,自分たちの時代も当然同じであると思っていました。ジョセフの両親,ジョセフ・スミス・シニアとルーシー・マック・スミスは, 家族がこの文化に溶け込み,物理的な物をこのような方法で使用したことを認めています。ジョセフが1827年の終わりにペンシルベニア州に引っ越す以前,ニューヨーク州パルマイラとマンチェスターの村人が,なくした物を見つけ出す ようジョセフに頼むこともありました。8
ジョセフが住んでいた地域において19世紀の人々がどのような信仰生活を送っていたかを理解しなければ,聖見者の石についてよく分からないかもしれません。そのために,研究者たちはジョセフの生涯のこの時期のことを長年論じてきたのです。ジョセフの時代は「啓蒙時代」すなわち「理性の時代」,つまり科学を強調し,霊的な事柄よりも目に見える世界を強調した時代でもありました。そのために,この時代の多くの人は,石やつえなど物理的な物を使うことは迷信に基づくものであり,宗教の目的を達するのには適切でないと感じるようになりました。
後年,ジョセフは,自分が体験した輝かしい出来事について話すとき,示現やその他の霊的な経験を強調しました。9 その一方で,かつての友人の何人かは,ジョセフが初期に聖見者の石を使ったことに焦点を絞り,そのような行為を次第に拒むようになった世界において彼の評判を損なおうとしました。伝道する際に,ジョセフと他の初期の会員たちは, 民間の文化の影響に心を奪われないことにしました。なぜなら,改宗する可能性のある多くの人は,「理性の時代」に宗教をどのように理解するか既に心を決めていたからです。しかしジョセフは,聖典に加えられることとなった啓示によって,聖見者の石やその他の聖見者の道具,ならびにそれらを取り扱う能力は重要なものであって,神から与えられた神聖な賜物であることを教え続けました。10
モルモン書を翻訳するために使われた道具
ジョセフ・スミスとモルモン書の翻訳について述べている歴史記録には,聖見者の石のことも出てきます。1838年 以降にジョセフが記した公式の歴史には,モロナイとされる天使の訪れのことが述べられています。この天使が,近くの丘に埋められている金版について彼に告げました。ジョセフは,天使と言葉を交わしている間に心に明瞭に「示現が 開かれ」,後にそこを訪れたときに「その場所が分かった」と詳しく述べています(ジョセフ・スミス―歴史1:42)。
教会歴史のいつの時代にも,教会員は, ジョセフ・スミスに関する初期の歴史と, 彼が金版を見つけて翻訳した歴史を理解しようとしてきた。 画家のC・C・A・クリステンセンが1886年に描いたこの絵は, ジョセフ・スミスが天使モロナイから版を受け取る場面を描いたものである。
「ジョセフ・スミスに版を渡す天使モロナイ」C・C・A・クリステンセン画
ジョセフが1838年に書き始めた歴史の中に,モロナイが警告したことが次のように記されています。「(父の家族は貧しい暮らしをしていたので)金持ちになるために版を手に入れるように,サタンがわたしを誘惑しようとするであろうと告げられた。」 天使はこのようなことのないように命じ,神の王国を築こうとする以外の「動機」を持てば「それを手に 入れることはできない」と告げたと,ジョセフは述べています(ジョセフ・スミス―歴史1:46)。それ以前の1832年の歴史の中で,ジョセフは次のように説明しています。「わたしは……富を得るために版を得ようとして,神の栄光にひたすら目を向けるようにという戒めを守らなかった。」11 その結果,版を受け取る備えができるまで4年間,毎年その丘へ行く必要がありました(ジョセフ・スミス―歴史1:53-54参照)。
最終的に1827年にモロナイから版を手に入れたとき,それを翻訳する際に用いる二つの石も受け取ったと,ジョセフは述べてい ます。彼も親しい知人たちも,これらの石について記録を残しており,石の外見は白あるいは透明であって,現代の眼鏡のように銀の弦つまり縁にはめ込まれ大きな胸当てにつけられていたと述べています。12 ここで述べられているように,その聖見者の道具はかさ張るものだったことでしょう。ジョセフ・スミスは石を使うときに,扱いやすいように胸当てから取り外したと,母親は述べています。13
モルモン書の本文では,これらの石は「解訳器」と呼ばれており,「世の初めから用意され,言語を解訳するために代々伝えられたもので」あって,「主が御自分の手により守り,保存してこられたものである」と説明されています(モーサヤ28:14-15,20)。
主がヤレドの兄弟に一つの約束とともに「二つの石」をお与えになった次第についても,モルモン書に述べられています。その約束とは,後世の人々がヤレドの兄弟の言葉を再び得るためにそれらの石が役立つということです。主は彼に次のように命じられました。「これらのことを書き記して封じなさい。わたしは自分がふさわしいと思うときに,これらのことを人の子らに知らせよう。」 主はこう述べておられます。「あなたが書き記すこれらのことを,これらの石によって人々の目に明らかにさせよう。」(エテル3:24,27)
モルモン書のオリジナル原稿を 撮影したもの。 現在の1ニーファイ2章の一部で, リーハイの家族がエルサレムを去ったことが書かれている。 ジョセフ・スミスは モルモン書を口述し, 数人の筆記者が書き取った。 この箇所について筆記者を務めた のはオリバー・カウドリである。
教会歴史図書館の厚意により掲載。画像を鮮明に加工した写真
ジョセフ・スミスがモルモン書の口述翻訳を終わった1829年半ばまでに,「聖見者」の意味がその本文の中でさらに明確にされていました。モルモン書にはエジプトのヨセフが語った預言が記されており,彼の子孫の一人―明らかにジョセフ・スミス―が「えり抜きの聖見者」として,神が先祖と交わされた「聖約を〔別の子孫に〕知らせる」と述べられています(2ニーファイ3:6,7)。
モルモン書の別の記録の中で,息子アルマが彼の息子ヒラマンに解訳器を渡しています。アルマは彼に,銀の弦にはめられた二つの石のことに触れて,「この解訳器も保存しなさい」と告げています。しかしアルマは,単一の石を指すと思われる預言も引用しています。「また,主は言われた。『わたしは暗闇の中で輝いて光を放つ一つの石を,わたしの僕ガゼレムのために用意しよう。』」(アルマ37:21,23)
特にこの預言は「解訳器」(複数形)の文脈で述べられていますが,将来の僕に「一つ の石」(単数形)が与えられることを告げて います。その石は「暗闇の中で輝いて光を 放〔ち〕」ます。14 初期の末日聖徒は,預言されたこの僕はジョセフ・スミスであると信じていました。15
実際に,史実が示しているように,ジョセフ・スミスはモルモン書を翻訳する際に,「解訳器」として知られる二つの聖見者の石の他に,少なくとも一つ,別の聖見者の石を使いま した。光を遮るために,しばしばそれを帽子の中に入れて用いています。ジョセフの友人たちによれば,彼はこうして石の上の言葉がよく見えるようにしたということです。16
1833年までに,ジョセフ・スミスと同僚たちは,神の啓示を受けるために使った石が何であろうと,それを指すのに「ウリムとトンミム」という聖書の言い方を用いるようになりました。ニーファイ人の解訳器と単一の聖見者の石の両方を含めてこう呼んでいます。17 このように言葉の使い方が 曖昧なため,ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳した実際の方法を特定するのが難しくなったのです。マーティン・ハリスによれば,解訳器を用いる他に,ジョセフは,モルモン書の翻訳時に扱いやすい聖見者の石の一つを使いました。他にも,ジョセフが翻訳の道具を変えたことを裏付ける資料があります。18
モルモン書の出版後
1830年3月にモルモン書を出版した後,ジョセフ・スミスと筆記者たちは,「聖書のジョセフ・スミス訳」として現在知られているものの作業に取りかかりました。預言者と して,欽定訳聖書の改訂を行ったのです。19 ジョセフの記録によれば,この翻訳作業では,ニーファイ人の解訳器を用いる選択肢はありませんでした。もうそれを持っていなかったからです。
「ジョセフ・スミス―歴史」にはこう説明されています。「わたしが求められたことをそれらによって成し遂げるまで,〔版と解訳器は〕神の知恵によって,わたしの手の中で無事であった。そして,前もって定められたとおり,使者がそれらを取りに来られたとき,わたしはそれらを使者に引き渡したのである。そして,……今日まで,その使者がそれらを管理しておられる。」(ジョセフ・スミス―歴史1:60)
ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)はそのことを次のように説明しています。「ジョセフは翻訳を終えたとき,版と一緒にUT〔ウリムとトンミム〕を返しました。」20
ジョセフ・スミスは,存命中に数千人の会員,また死後も数百万人の会員の間で,預言者,聖見者,啓示者として知られてきた。
「ジョセフ・スミス」デビッド・ロジャーズ画,コミュニティ・オブ・クライスト図書館・文書館の厚意により掲載,ミズーリ州インディペンデンス
ジョセフは他にも聖見者の石を複数持っていました。しかし,十二使徒定員会会員であり後に教会歴史家となったオーソン・プラット長老(1811-1881年)が語ったところによれば,ジョセフの霊的理解力は,このときまでに成熟の域に達していました。ブリガム・ヤング大管長や他の多くの中央幹部が出席した1874年6月28日の集会で,プラット長老は,会衆に,ジョセフ・スミスが「新約聖書を翻訳していた」ときに自分は「何度もその場に立ち会った」と告げ ました。その翻訳の過程で解訳のための道具が用いられるのを見なかったため,プラット長老は,どうしてジョセフが「モルモン書の翻訳のときのようにウリムとトンミムを使わ ない」のかいぶかしく思いました。
プラット長老が翻訳する預言者を見ていると,「ジョセフはまるで彼の思いを読み取ったかのようで,顔を上げ,主がウリムとトンミムを与えられたのはまだ霊感の霊について 経験が浅かったためであって,今ではその御霊の働きを 理解できるまでに成長したためその道具の助けを借りる 必要がなくなったと説明しました。」21
ブリガム・ヤングは,聖見者の石を受け取っていることについて,ある会衆に自分の思いを次のように語りました。「わたしはこれまで,それが欲しいと思ったことはありま せん。」22 この言葉から,ブリガムは,聖見者の石は聖見者となるために必須のものではないと理解していたことが分かります。
1831年10月25日,ジョセフ・スミスはオハイオ州オレンジで大会に出席しました。その大会中に,兄ハイラムは,「全ての人が知ることができるように,ジョセフ自身が,出席している長老たちに,モルモン書が世に出るに至った経緯を述べることが最善であると思う」と述べました。議事録によれば,ジョセフは,「モルモン書の出現の詳細について全てを世の人々に告げるつもりはないと言い」,また「これらのことを話すのは適切ではない」と述べました。23 聖見者としての務めを十分に果たせるようになり,聖見者の石が 啓示を受けるのに必須のものではないと確信するに至ったため,おそらく彼は,モルモン書が世に出た方法に人々があまりにも心を向けすぎて,書物そのものに注意を払わなくなるのではないかと心配したのでしょう。
ジョセフ・スミスがモルモン書の翻訳に 関連して成し遂げたことで最も際立っている点は,「神の賜物と力によって」それを行ったことでした。24 モルモン書は「この世で最も正確な書物であり,わたしたちの宗教のかなめ石」であって,その教えに従うことにより,読者は「ほかのどの書物にも増して神に近づくことができる」と,ジョセフは教会の指導者たちに教えました。25
聖見者の石に何が起こったか
この写真の石は,長年ジョセフ・スミスと モルモン書の翻訳に関係のあったものである。 ジョセフ・スミスがモルモン書の翻訳作業に使った石は, 卵形で,チョコレート色の石であったとよく言われている。 この石は,ジョセフ・スミスからオリバー・カウドリに, そしてその後,ブリガム・ヤングやその他の人々を通して 教会に提供された。
写真/ウェルデン・C・アンダーセンとリチャード・E・ターリー・ジュニア
ジョセフ・スミスの歴史によれば,彼はウリムとトンミム,すなわちニーファイ人の「解訳器」を天使に返しました。しかし,ジョセフがモルモン書を翻訳するときに使った別の聖見者の石(単数または複数)はどうしたのでしょうか。
デビッド・ホイットマーはこう記しています。「モルモン書の翻訳が終わった後,1830年の春の初め,4月6日以前に,ジョセフはオリバー・カウドリにその石を渡し,わたしにも他の人たちにも,翻訳を終えたのでもう石を使うことはないと言った。」26
1848年に再バプテスマを受けるまで10年間教会を離れていたオリバーは,西部へ行ってユタで聖徒たちとともに暮らすつもりでしたが,旅に出る前に,1850年にミズーリ州リッチモンドで亡くなりました。27 オリバー・カウドリを教会に連れ戻す助けをしたフィニアス・ヤングは,オリバーの残された妻,すなわちデビッド・ホイットマーの妹エリザベス・アン・ホイットマー・カウドリから聖見者の石を受け取りました。その後,フィニアスは,弟のブリガム・ヤングにそれを 渡しました。28
フィニアス・ヤング(ヤング家の兄弟たちの中央に座り, 右隣はブリガム・ヤング)は, モルモン書の翻訳に使われた聖見者の石を オリバー・カウドリから受け取り, それを弟のブリガムに渡した。
1866年頃の写真/教会歴史図書館の厚意により掲載
「わたしはOC〔オリバー・カウドリ〕からもらったジョセフの最初の聖見者の石を持っています」と,1853年にヤング大管長はその事実を認めています。他にも聖見者の石が複数ありました。彼はこう付け加えました。「ジョセフは3個持っていました。今はエマが持っています。小さいものを2個,大きいものを1個 です。」29 それから2年後,ブリガム・ヤングは,集まっていた大勢の教会指導者に次のように言いました。「オリバーはわたしにジョセフの最初の聖見者の石を送ってくれました。わたしに送るまで,オリバーはずっとそれを保管していました。」30
ブリガム・ヤングが亡くなった後,妻の一人で,後に第3代中央扶助協会会長となったザイナ・D・H・ヤングは,遺品としてチョコレート色の聖見者の石を受け取りました。石は,ジョセフがモルモン書を翻訳するために使った石の説明に合致していました。ザイナはそれを教会に寄贈しました。31 以来,その後の教会指導者は,教会が聖見者の石を所有していることを認めています。32
翻訳の過程を描いた絵
長年にわたり何人もの画家が,モルモン書の翻訳の様子を描こうと努めてきました。登場人物にいろいろな場面でさまざまなポーズを取らせ,多様な物と一緒に描いています。それぞれの画家の解釈は,画家自身の見解,研究調査,創作力に基づいており,時折他の人々からの情報と指示による助けを得ています。長年にわたって制作されてきたものの一部を以下に紹介します。
版を研究する ジョセフ・スミスを 想像して描いたもの。 ジョセフは版から 「かなりの文字を写し取〔った〕」 と述べている。 ジョセフが 「ウリムとトンミムによって」 これらの文字を翻訳した後, マーティン・ハリスは 翻訳を確認するために, チャールズ・アンソンをはじめ 学者たちのところへ その文字を持って行った (ジョセフ・スミス―歴史 1:62-64)。
「神の賜物と力によって」サイモン・デューイ画,Altus Fine Artsの厚意により掲載
モルモン書の翻訳に取り組む ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリを描いたもの。 ここに描かれている場面とは異なり, オリバー・カウドリは,翻訳が終わるまで版を見たことはないと述べている。 翻訳の過程を見た人たちは,翻訳中,版は亜麻布で覆うなどして 人の目に触れないようにされていたと述べている。
「モルモン書を翻訳するジョセフ・スミス」 デル・パーソン画
解訳器すなわち 眼鏡のついた胸当てを身に着けて翻訳する ジョセフ・スミスを想像して描いたもの。 この眼鏡は後にウリムとトンミムと呼ばれた。
イラスト/ロバート・T・バレット
毛布で仕切って翻訳を行うジョセフ・スミスと筆記者を描いたもの。 翻訳の過程を述べたほとんどの説明で,毛布のことはまったく述べられていない。 しかし,最初の頃は,筆記者が版や眼鏡,胸当てを目にすることのないように, 毛布が使われていたことは明らかである。 翻訳作業の後半には,翻訳を好奇の目で見たがる人々から翻訳者と筆記者を遮蔽するために, 毛布が使われた可能性はある。
「版の翻訳」アール・ジョーンズ画。教会歴史美術博物館の厚意により掲載
注
1. 教義と聖約第115章参照
2. Preface to Book of Mormon,1829年8月頃(英語)。The Joseph Smith PapersのDocumentsシリーズ第1巻, Documents, Volume 1: July 1828-June 1831, (2013年),93で引用。モルモン書「三人の証人の証」も参照
3. 出エジプト4:1-5,17,20-21;7:8-21;8:16-19;9:22-26;10:12-15;14:15-18;17:1-13;民数17:1-10;20:7-11;ヘブル9:4参照(すべて英語)
4. 民数21:7-9;ヨハネ3:14-15参照(すべて英語)
5. 出エジプト28:12;35:9,27;サムエル上23:9-12;30:7-8参照(すべて英語)
6. 出エジプト28:30;レビ8:8;民数27:21;申命33:8;サムエル上28:6;エズラ2:63;ネヘミヤ7:65参照
7. この19世紀の宗教文化に関する詳細については, The Joseph Smith PapersのJournalsシリーズ第1巻, Journals, Volume 1: 1832-1839, (2008年),xix; The Joseph Smith PapersのRevelations and Translationsシリーズ第3巻, Revelations and Translations, Volume 3: Printer’s Manuscript of the Book of Mormon, (2015年),xv-xvi;ダリン・H・オークス,“Recent Events Involving Church History and Forged Documents,”(英語) Ensign, 1987年10月号,68-69を参照
8. ジョセフ・スミス・シニアの言葉を参照。フランシス・W・カーカム, A New Witness for Christ in America: The Book of Mormon, 第2巻(1959年),366で引用。ルーシー・マック・スミス,“Lucy Mack Smith, History, 1844-1845,”第3巻,10ページ, josephsmithpapers.org/paper Summarylucy-mack-smith-history-1844-1845(英語)も参照。マーティン・ハリスは,干し草の山の中からピンを見つけ出すようジョセフに依頼することによって彼の能力を試した思い出を語っている(“Mormonism-No.II,” Tiffany’s Monthly, 1859年7月号,164参照)。
9. 例として,高価な真珠のジョセフ・スミス―歴史を参照
10. 教義と聖約130:10-11参照。現在教義と聖約第8章 となっている記録の,最も早い時期の表現も参照。これは,モルモン書を翻訳しているジョセフ・スミスを助けたいと思ったオリバー・カウドリに向けられたものである(Revelation, Apr. 1829–B(英語), Documents, Volume 1: July 1828-June 1831, 44-47)。
11. ジョセフ・スミス,“History, ca. Summer 1832”(英語)。 The Joseph Smith PapersのHistoriesシリーズ第1巻, Histories, Volume 1: 1832-1844, (2012年),14で引用
12. ジョセフ・スミス―歴史1:35;ジョセフ・スミス,“Church History,”(英語) Histories, Volume 1: 1832–1844, 495で引用;マーティン・ハリス,“ Mormonism-No.II,”165-166で引用;“Lucy Mack Smith, History, 1844-1845,”第5巻, 7-8, josephsmithpapers.org(英語) を参照
13. 例として, “Lucy Mack Smith, History, 1844-1845,”第5巻, josephsmithpapers.org(英語)を参照
14. 当然のことながら,注釈者たちはこの違いに頭を悩ました。例として,ブルース・R・マッコンキー, Mormon Doctrine,第2版(1966年),307-308;ジョセフ・フィールディング・マッコンキー,ロバート・L・ミレット共著, Doctrinal Commentary on the Book of Mormon,全4巻(1987-1992年),第3巻,278;マシュー・B・ブラウン, All Things Restored: Confirming the Authenticity of LDS Beliefs (2000年), 62を参照
15. ウィリアム・W・フェルプス,Funeral Sermon of Joseph and Hyrum Smith, 教会歴史図書館,ソルトレーク・シティー; オーソン・プラット,“Explanation of Substituted Names in the Covenants,” The Seer, 1854年3月号, 229;ウィリアム・W・フェルプス,ブリガム・ヤングへの手紙,1854年4月10日付,ブリガム・ヤング事務所ファイル, 1832-1878年,教会歴史図書館,ソルトレーク・シティー;The Joseph Smith PapersのRevelations and Translationsシリーズ第2巻, Revelations and Translations, Volume 2: Published Revelations, (2011年),708-709を参照
16. 翻訳の詳細については,“Book of Mormon Translation,” を参照。lds.org/topics/book-of-mormon-translationで閲覧可能である。ラッセル・M・ネルソン,“A Treasured Testament,”(英語) Ensign, 1993年7月号,61-65;ニール・A・マックスウェル,“By the Gift and Power of God,”(英語) Ensign, 1997年1月号,36-41も参照
17. 例えば,ウィルフォード・ウッドラフは,ノーブーで見た聖見者の石をウリムとトンミムと呼んでいる(ウィルフォード・ウッドラフの日記,1841年12月27日,教会歴史図書館)。Revelations and Translations, Volume 3: Printer’s Manuscript of the Book of Mormon, xixも参照
18. Revelations and Translations, Volume 3: Printer’s Manuscript of the Book of Mormon, xviii-xix参照
19. この取り組みを開始したことの要約については, Documents, Volume 1: July 1828-June 1831, 150-152を参照
20. 議事録,1853年4月17日,教会歴史図書館
21. “Two Days’ Meeting at Brigham City, June 27 and 28, 1874,” Millennial Star, 1874年8月11日付,498-499
22. 議事録,1855年9月30日,教会歴史図書館
23. 議事録,1831年10月25-26日(英語)。The Joseph Smith Papers のDocumentsシリーズ第2巻, Documents, Volume 2: July 1831-January 1833, (2013年),84で引用
24. Preface to Book of Mormon,1829年8月頃(英語)。Documents, Volume 1: July 1828-June 1831, 93で引用。モルモン書「三人の証人の証」も参照
25. ジョセフ・スミス。ウィルフォード・ウッドラフの日記,1841年11月28日,教会歴史図書館;またはモルモン書序文
26. デビッド・ホイットマー, An Address to All Believers in Christ(1887年),32
27. オリバー・カウドリが生前に教会に戻ったことに関する詳細については,スコット・F・ファウリング,“The Return of Oliver Cowdery,”を参照。ジョン・W・ウェルチ,ラリー・E・モーリス共編, Oliver Cowdery: Scribe, Elder, Witness(2006年),321-362で引用
28. 議事録,1855年9月30日,教会歴史図書館,ソルトレーク・シティー;“David Whitmer,” The Historical Record, 1888年10月,623;デビッド・ホイットマーに宛てたマリア・L・カウドリ・ジョンソンの手紙,1887年1月24日付,コミュニティ・オブ・クライスト図書館・文書館,ミズーリ州インディペンデンス;フランクリン・D・リチャーズの日記,1882年3月9日,教会歴史図書館を参照
29. 議事録,1853年4月17日,教会歴史図書館
30. 議事録,1855年9月30日,教会歴史図書館
31. フランクリン・D・リチャーズに宛てたザイナ・ヤングの手紙,1896年7月31日付参照,Journal History of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 1896年7月31日,教会歴史図書館で引用
32. B・H・ロバーツ, A Comprehensive History of the Church, 第6巻,230-231;ジョセフ・フィールディング・スミス, Doctrines of Salvation, ブルース・R・マッコンキー編,全3巻(1954-1956年),第3巻,225;ブルース・R・マッコンキー, Mormon Doctrine,第2版(1966年),818-819参照