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オークス長老,KSLニュースラジオで宗教の自由について語る

末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老が,KSLニュースラジオのグラント・ニールセンおよびアマンダ・ディクソンとのインタビューで,宗教の自由の大切さについて語った。

オークス長老は,市民社会において宗教が果たす極めて大切な役割,宗教を実践する自由をどうしたら擁護できるか,そして,多元的世界における協和共存の必要性について説明している。下記はそのインタビューの抜粋である。


質問1―宗教の自由を取り巻く状況はどんな点で危機的なのか。

オークス長老:今日我が国では,宗教の自由について多くの論争があります。少なくとも1世紀にわたり,わたしたちはそのような論争を常に行ってきました。しかし,現在その論争は非常に政治的かつ対立を生じさせるものになってきています。そして具体的には,差別しないことは社会の大切な価値観ですが,宗教の自由の対極にあるものとして差別のない社会となっています。しかも人々は,あたかも両方の立場を同時に取ることができないかのように,どちらかの立場を選ぶのです。これは良い状況ではありません。それに,これに関連して,論争の中には,言論の自由を脅かすものもあります。これについては一般市民のみならずメディア関係者も警戒しなければなりません。


質問2―米国憲法修正第1条はアメリカにおいて宗教の自由を守る機能を果たしているか。

オークス長老:米国憲法修正第1条(「言論の自由」条項)が障害となって立ちふさがっていますが,この条項の解釈は常に変化しています。例えば現行の解釈では,宗教の自由についてはその価値が疑問視されています。研究者の中には,宗教の自由は言論の自由と何ら変わらないものであるという意見を持っていることに,わたしは大変懸念しています。彼らの主張は,聖職者が説教することができ,人々が自由に礼拝できる限り,それは全て言論の自由の対象となるので,宗教を実勢する自由に関して何ら心配する理由がないというものです―わたしは憲法の条文を引用しています。これは非常に危険な主張です。米国憲法の起草者は,宗教の自由には非常に大切なことが含まれると感じていたはずです。と言うのは,彼らは宗教の自由に関して二つの事柄を保障したからです。つまり,宗教を実践することの自由を保障し,言論の自由を保障したのです。この偉大な価値のある二つが,わたしたちは第一の自由と呼んでいますが,合わさって,宗教の自由が守られているのです。この宗教の自由が,法廷に提出され,時々,法廷の暗示的あるいは直接的な見解に頼ってしまう議論により脅かされているのです。


質問3―宗教を信じている人も,そうでない人も,憲法による宗教の自由の保障を理解していると思うか。

オークス長老:そうは思いませんが,一般的に人々は,憲法が何を保障しているかを知りつくしているわけではありませんので,宗教の自由が憲法によって保障されていることを理解していない人がいても不思議はないとわたしは思います。しかし,米国憲法とそれが保障している事柄について熟知しておくのは,十分な教育を受けた人や司法関係者,オピニオンリーダーたちの責任であるとわたしは考えています。


質問4―宗教の実践の自由を守るために,人々には何ができるか。

オークス長老:宗教の実践の自由を守るために,人々ができることはたくさんあります。一つは,公共の場で宗教の話を聞いてもらう権利を主張することです。国内には,別の理論が広まっています。その理論は,明らかに,公共の場で宗教的価値観の話は禁句であり,非常識な議論ということで,議員は宗教的価値観の話を用いることはできないと主張する判事や学者の意見が基となっています。アングロサクソン系の法律の心得のある者なら誰でも,刑法や家族法,その他多くの法律がユダヤ教とキリスト教の伝統を基にしていることを知っています。これらの法律は,その起源を旧約聖書にまで遡ることができます。宗教的価値観はばかげた議論であり,立法の基礎としてふさわしくないという主張は,今日急速に広まっています。これは心配の種の一つです。人々は,法律を作る際や議論を行う際には公に支持される論拠がなければならないと公の討論で言い,法律学者の中には,本を出版して,法律を作る際,あるいは議論を行うには,人は,公共の利益がなければならないと主張しています。そのうえで,その公共の利益は,宗教や宗教的価値観に関するものであってはならないと言っているのです。


質問5―立候補者の宗教的な信条または宗教的な信条の欠除は,公職に就任する心構えや就任後の役務執行能力に影響を及ぼすと思うか。

オークス長老:米国憲法は,公職に就くのに宗教の有無は問わないと規定しています。米国社会において,これは非常に重要な価値観です。この5番目の質問に対する人々の反応として,その候補者がキリスト教信者であるとかないとか,ユダヤ教信者であるとかないとか,宗教の信者であるとかないとか,何であれ,そのように言うことは言ってはならない禁句であると,わたしは思います。しかし,個々の投票者がそれぞれ心の中で,自分はカトリック教徒だからカトリックの立候補者が良いと考えることは,一向に構いません。人はそれを止めることができず,憲法もこれを禁じてはいません。しかし,公職への就任に宗教の有無を問うことは,憲法で禁じられています。


質問6―宗教の自由の保護と維持は,宗教を持っているとは思われないような人にとってどのような恩恵をもたらすのか。

オークス長老:法律や法的拘束力によって市民の行動を規制することに頼っていては,文明社会を営むことはできません。法律の対象となる行動や法的拘束力で制御できる行動は,どう考えても市民の様々な行動のほんの一部でしかないからです。文明社会は,法的強制力のないルールに従うことによって維持されています。そして,法的強制力のないルールに従うよう人々に教えているのは宗教なのです。人々の半数しか神を信じる信仰を持っていたり,宗教をもっていないとしても,それが社会をまとめる機能を果たしているので,やはり,宗教は大いに社会のためになっているのです。そして,信仰を持たない人は倫理基準その他の基準を持っています。わたしは信仰を持つ者として,遅かれ早かれ自分は神に報告する責任があると信じています。この信条があるために,わたしは倫理基準や職業上の基準よりも厳格に自分を律しています。宗教を擁護するよう要請された人が信者ではなかったとしても,宗教によって社会は大きな恩恵をもたらしていると,わたしが考えるのはそのためです。


質問7―他の人々の宗教の自由は擁護するが,自分自身には宗教の自由を負わされたくない人についてはどう考えているか。

オークス長老:それは今,非常に大きな影響力を持つ議論となっています。しかし,そのような議論を展開する人は,宗教を持っている人には宗教を実践する自由が賦与されているという事実を見落していると思います。そして,自分の持っている宗教を実践する際に,少なくとも感情面で他の人の気分を害することをしているかもしれません。他の人を身体面で害する行為をすれば,恐らく法律が介入することになるでしょう。宗教を実践する自由は,人々の健康や福祉,安全を守るという政府の権利の対象から除外となっていることは確かです。しかし,「わたしは教会に行っているからあなたより清い」と言っているかのように感じる人がいたとしても,わたしは宗教の実践を止めるわけにはいきません。教会に行かないことを選んでいる人々がどのように感じていようと,わたしは教会に行くことができなければならないのです。挙げようと思えば他に幾ら例はありますが,最終的には,社会で暮らす以上,お互いを尊重し合える環境の中で生活しなければなりません。自分とは異なる価値観を持つ人の意見を尊重しなければならず,自分とは異なる価値観を持つ人に,自分の価値観を尊重してもらえるものと期待しています。さて,わたしが自分の価値観を公共の場に持ち出して,例えば安息日にはすべての企業が業務を停止しなければならないという法律を作るべきだと主張すれば,衝突が起こります。このような衝突は信者と不信者の間では昔からよくありました。しかも,もちろん安息日の定義は宗教によって異なります。しかし,安息日に業務を停止することを法律で強制してもよいかどうかという問題は,意見の衝突を招きます。その法律が一部の人の宗教的な信条を押しつけるためのみに執行された場合には超えてはならない線を超えてしまいます。しかし,その法律が,宗教を信じている人とそうでない人に分け隔てなく健康や安全や福祉に寄与する場合は,そのような法律を作る権利があります。他にも例を挙げれば枚挙にいとまないですが,法律が議論を招くことは事実です。差別廃止法であろうが安息日業務停止法であろうが,法制化することによって宗教的な信条を押しつけているという反対意見が出てくるのです。法律に公共の利益を守る意図があるかどうかを考慮しなければならないのは,そのためです。しかし,「道徳的な意図があるのであなたの意見は受け入れられない」と言うならば,超えてはならない線を超えれているとわたしは思います。公共の利益を守る意図と道徳的な意図とが共存する場合,道徳的な理由のために賛成票を投じた人がいるということで,その法案を拒否すべきではありません。


質問8―宗教を持っている人たちは協力し合って宗教の自由を守るべきだとの主張しておられるが,公有地における降誕劇の禁止や,宗教団体が公立学校を使って集会を持つことを禁じる規定などは,宗教を持つ多くの人々にとって障害となっている。そのような人たちはどうすればよいのか。

オークス長老:宗教を持つ人々にできることの一つは,宗教を実践する自由を求めて訴訟を起こすことです。わたしは元判事であり,長年法学部の教授を務め,法律家としての業務を行ってきた者として知っていますが,今日のわたしたちの法体制の中で,よく知られていることの一つは,言論の自由に関する法律は非常によく整備されきたということです。言論の自由の限界を問う事例は何千件もあります。しかし,宗教の自由や宗教を実践する自由を問う事例は非常に少ないです。

なぜでしょうか。それは,人々は言論の自由には関心があり,全てを説明はできませんが,いろいろな理由で訴訟を起こすことが多いのです。言論の自由を求める訴訟は幾らでもあります。しかし,その陰には原告がいます。原告が訴訟を起こすとき,米国憲法修正第1項(「言論の自由」の条項)に基づいて法廷は法律を作成し,法律を定義します。そしてこれまで,言論の自由を求めて訴訟を起こす原告は,宗教の自由を求めて訴訟を起こす原告よりもはるかに多かったのです。宗教の自由に関する法律があまりよく整備されていないのは,このためなのです。


質問9―訴訟を起こすことによって地歩を固めることができるか。

オークス長老:公立の学校の教室で立ち上がって宗教の教義を説くのは,法律に反しています。これは皆が承知しており,これに関する訴訟はたくさんあります。しかし,公立の学校または大学で教師が立ち上がって宗教を攻撃することも法律に反する行為ですが,これに関する訴訟は一つもありません。しかし,宗教を教えることを教師に禁じる原則は,宗教を攻撃することも教師に禁じていることは極めて明らかだとわたしは考えます。そして,公立の学校で教師が宗教を攻撃するのは日常茶飯事のことです。このような行為が疑問視されるようになれば,この分野での法律も整備されてゆくだろうとわたしは考えます。


質問10―どうすれば,法廷での論争や異議申し立てをすることなく,宗教の自由を擁護していくことができるのか。

オークス長老:この分野における未解決の論議から発生する論争は,社会の雰囲気にとって弊害となり,わたしたち市民全員にとって不都合なものとなります。これから先,論争がありながらも,お互いに理解し合い,お互いの立場を尊重し合って,相違点を捨て去るのではなく,相違点がありながらも共存する方法を学ぶことができるようになることを望んでいます。

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