1830年代の末日聖徒とミズーリ州と言えば、リルバーン・W・ボッグス知事によって出された1838年の悪名高い撲滅令を思い出すことが多い。撲滅令ほどの知名度はないものの、ミズーリ州でも良いことがあったことをうかがわせる話として、州の反対側にいた末日聖徒が友と呼ぶ人たちについての話がある。セントルイス市民は末日聖徒を守り、セントルイス市は後に末日聖徒らがユタ州へと移動するのに重要な役割を果たすことになる。
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米国が西部に向かっての領土拡大を行う歴史の数々と共に、このミズーリ州の歴史がセントルイスで改修工事を終えたゲートウェイアーチ博物館で語られている。象徴的なアーチの下に位置するこの博物館は40年の歴史を持つが、老朽化した資材と米国西部の一般的な歴史の内容が最新技術を持って更新された。新しい展示では、米国の西部への領土拡大にセントルイスが果たした役割に特に焦点が当てられ、価値のある工芸品や視聴覚教材を用いて200年にわたる歴史が年代順に紹介されている。
「わたしたちは新しい博物館の完成をとても喜んでいます。さまざまなレベルで来館者が歴史を楽しめる展示になっています」と米国公園局に務める歴史家ボブ・モアが述べた。
モアは地元の末日聖徒の歴史家であるトーマス・L・ファーマーと共に、あまり知られていないセントルイスの歴史の語り部として博物館で働いている。
「リニューアルされたゲートウェイアーチ博物館でモルモンの物語を語るべきだとボブが教えてくれました。ボブ・モアは親友で、彼の助けなしに今回のプロジェクトはあり得ませんでした。展示の準備は楽しく、制作パートナーとしてボブ以上の人はあり得ませんでした。来館者は真実を知りたがっていますし、真実を語る展示ができたことを嬉しく思います」とファーマーは述べた。
8冊の著書があり1991年から公園局の歴史家として働いているモアは、セントルイスにおける末日聖徒に関して良い話もあったことを知り、驚いたと同時にとても興味深く思った。
「わたしが知っているミズーリ州の末日聖徒についての話のほとんどは否定的な内容でした。つまりリルバーン・ボッグスが出した撲滅令の話です。けれども学び始めると、ミズーリ州でもここ東部では否定的な話はありませんでした。末日聖徒は地域社会の活力あるメンバーでした。彼らについて否定的な評判はありませんでした。『あのモルモンの奴らが町にやって来た』など、反対勢力の新聞に載るような内容は一切ありませんでした。彼らについてはいつも良いことが書かれていました。大勢でやって来て、地域社会で歓迎される存在でした。彼らは地域社会でとても役に立つ存在でした」とモアは述べた。
歴史
1831年、末日聖徒イエス・キリスト教会の最初の預言者ジョセフ・スミスは、ミズーリ州ジャクソン郡インデペンデンスが教会にとって集合の場所となると教会員に述べた。教会員がジャクソン郡に流入してきたことは、住民たちの懸念材料となった。多くの末日聖徒は奴隷制に反対しており、礼拝の方法も違い、選挙の投票数として脅威になると考えられた。そこで地元住人は1,000人以上の教会員に対し町を去るように命じた。教会指導者らは裁判所に保護を求めたが失敗に終わり、暴徒が教会員を町から追い出した。1834年、ジョセフ・スミスと約200人の武装した男性(『イスラエルの陣営』、または『シオンの陣営』と呼ばれた)が教会員を守るために到着した。しかし嵐のおかげで対立には至らず、陣営は後に解散した。
末日聖徒の避難民はクレイ郡、コールドウェル郡、そしてデイビーズ郡では平穏に暮らすことができた。1838年までにファーウエストには教会本部が置かれ、そこには住宅、ホテル、印刷所、学校などが建てられた。しかし、平穏は一時的なものであった。1838年8月、ギャラティンで暴動が勃発し、教会員は選挙投票を阻止され、暴徒の襲撃が始まり、十二使徒定員会のデビッド・W・パッテンが殺された。教会員に関する誇張されたうわさが、最終的に1838年のリルバーン・ボッグス州知事による撲滅令を招く結果となった。正式に許可されていない市民軍によって、少なくとも17人の教会員の男性、少年らがホーンズミルで命を落とした。
セントルイスの地域住民はこういった行動に反対し、教会を擁護する立場を取り1838年にそれを新聞に発表した。この困難な時期に、末日聖徒らはセントルイスで働き口と保護を求めた。ミズーリ州の一人の議員が州当局に対し、末日聖徒の保護を求める請願書を提出した。請願書を認めるべきだとしたのは少数であったが、セントルイス選出の州政府代表者は全員末日聖徒を擁護する少数派に属していた。
「ボッグス州知事の撲滅令はミズーリ州北西部で発令されたが、セントルイスから追い出された末日聖徒はいなかった。セントルイスの住民たちは、苦境に陥ったモルモンたちが州外に移動するのを助けるため、資金調達のために数々のミーティングを開いた」とセントルイスで発行された学術誌「コンフルエンス(Confluence)」の2018年夏号の著者であるファーマーとブリガム・ヤング大学の共著者フレッド・E・ウッズは語った。
1839年にジョセフ・スミスがイリノイ州で作った町ノーブーから退去を余儀なくされた1846年には約2000人の末日聖徒がセントルイスに移住した。ファーマーとウッズは「モルモンにとって、セントルイスはユタ州に向かう途中での避難場所となり、ここでは迫害されることなく宗教を実践することができた」としている。セントルイスの聖徒らは、西に向かう準備ができると、隊を結成しユタ州に向かった。
「移民はセントルイスに到着し、蒸気船を乗り換えました。乗り換えまでに数時間だった者もいれば、数カ月から数年待った者もいました」とファーマーは述べた。
コレラの蔓延により移民が他の地域に移されたため、1857年6月までに、末日聖徒はセントルイスを安全な地として用いることを止めている。最終的に、末日聖徒開拓者ら7万人の内22,000人が1846~1857年にわたり、セントルイスを経由してユタ州に行った。