2019年7月9日,福島県郡山市のドンカラック男声合唱団が,2011年に起こった東日本大震災によって被災した家族へ贈られた寄付に対し,感謝の歌を披露した。コンサートは,末日聖徒イエス・キリスト教会のホノルルタバナクルで行われた。
福島付近で起こった大震災から6ヶ月後,ドンカラック合唱団はロサンゼルスでコンサートを行っていた。愛する者を失った辛い時期ではあったものの,福島の人々が抱く前進しようとする決意を世界に見せることに重要性を感じた。そのコンサートで,合唱団はハワイ在住の日本人ビジネスマンや女性から成るホノルル福島県人会と関係を築いた。県人会メンバーの先祖の多くは福島出身である。彼らは被災者に対する慈悲の気持ちを感じていた。ハワイ州知事の協力により,県人会は故郷が復興するようにと800万米ドル以上を集めたのだ。
岩手大学混声合唱団もドンカラック合唱団とともにコンサートのステージに立つことに同意し,その公演の一つをホノルルタバナクルで行う手配がなされた。郡山で歴史家として活躍する橋本捨五郎氏も合唱団に同行するよう依頼を受けた。BYUハワイ校で学び,ポリネシア・カルチャー・センターで働いていた辻恵子 姉妹が通訳者として同行した。恵子姉妹と同行した夫の芳 兄弟は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員である。
講演の中で,橋本氏は偉人勝沼富造の足跡を訪ね,日本からハワイへ移住した移民の150年の歴史における勝沼氏の影響力について振り返った。奇しくも,勝沼氏の葬儀は同ホノルルタバナクルで執り行われている。
1863年,福島で生まれた加藤木富造は,勝沼家の養子となった。若い頃サンフランシスコへ渡った富造は,職を転々とした後ソルトレークに落ち着く。ユタ州でユタ州立大学に進学し獣医となった富造は,後にビーハイブ扶助協会で養蚕法について教えている。その後まもなくバプテスマを受け,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になった。富造は日本人初の教会員だと考えられている。後に,サンフランシスコの日本領事の依頼により,出入国審査官としてハワイへ移る。審査官となってほどなくして,福島へ戻り移民を募集した。「ハワイ移民の父」と呼ばれるようになったのは彼の働きによるところが大きい。
勝沼富造は日本人移民がアメリカ国籍を取得できるよう,長年にわたって辛抱強く働きかけた。努力が実ろうとしたその時,第二次世界大戦が勃発し,働きかけの妨げとなった。しかし戦後も働きを止めなかった。戦時中,アメリカ陸軍第100大隊および第442連隊に所属した日系アメリカ人の尽力もあり,アメリカ連邦議会の議員も富造の努力を支援するようになる。富造の死から二日後の1950年9月11日,上院議員および連邦議会は米国籍に関する法案を強引に通過させた。この法案は1952年に署名され法律として成立している。
ドンカラック男声合唱団は,荒井一成氏の指揮で,「会津磐梯山」や「ソーラン節」などを歌い聴衆を魅了した。フラダンスのインストラクターも務める辻姉妹が「見上げてごらん夜の星を」および「アロハ・オエ」の歌に合わせてフラを披露。岩手大学混声合唱団は,千葉日向子さんの指揮で日本の懐かしい唱歌を披露した。
佐藤文吉団長はこの取り組みに深く心動かされた。「大震災の後に皆さんから受けた温かい支援に対するわたしたちの感謝の気持ちを歌に乗せて伝えたいです。」ホノルルでのコンサートは,彼らにとってまさにその機会だった。義援金集めに協力した約100名のホノルル福島県人会のメンバーがコンサートに出席した。彼らは「ハワイ移民の父」について学べたことにも感謝していた。多くの地元の教会員も出席しており,その中には日本仙台伝道部で奉仕した小泉小太郎元伝道部会長と妻ググレース キヨコの姿もあった。
ドンカラック男声合唱団は1999年に組織され,32名の団員から成り,平均年齢は70歳である。合唱団のモットーは,「人生を楽しむ」。団員の中に教会員は一人もいないが,彼らはタバナクルで感謝の歌声を響かせる機会に心から感謝していた。