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日本福岡伝道本部のリビングルームに美しいピンク色の革張りのリクライニングチェアがある。この椅子は普通の椅子ではない。それは教会歴史を物語る思い出の一品である。
「わたしたちはその椅子を『使徒の椅子』と呼んでいるのよ」と夫のスペンサー・F・マック伝道部会長とともに2018年7月に福岡伝道部に赴任して以来,伝道本部に住んでいるジェーン・マック姉妹は話した。
その使徒の椅子はマック伝道部会長の祖父であり,1973年から1985年まで教会の預言者・大管長を務めた故スペンサー・W・キンボール大管長が所有していたものである。マック会長の名前は祖父の名前にちなんでつけられた名前である。キンボール大管長が亡くなったとき,キンボール大管長の椅子はキンボール大管長の唯一の娘であったオリーブ・ベス・キンボール・マックに引き継がれた。そして,彼女が亡くなったとき,息子であるスペンサー・マック会長がその椅子を受け継ぐことになった。
「わたしたちが伝道部会長とその夫人として奉仕する召しを受けたとき,その椅子は持参する品目として選んだ物の一つでした。わたしたちは伝道本部にキンボール大管長の椅子を置くことで良いきっかけづくりになり,日本の友人や訪問者に教会の歴史の一部分を話すまたとない機会になるだろうと思いました」とマック会長は説明した。
「この使徒の椅子にまつわる話は,わたしたち家族の中で何年にもわたって受け継がれてきました。祖父のキンボール大管長が使徒として務めていたときに当時の大管長会からもらったものです。祖父が受け取る75年か80年ぐらい前に,その椅子は十二使徒が神殿の評議室において使用するために購入された椅子の一つです。」
キンボール大管長は自分の言葉で次のように記している。「1943年にわたしが十二使徒に召されたとき,これらの12脚の椅子はソルトレーク神殿4階の十二使徒評議会の部屋に半円上に設置してあった。この十二使徒の部屋で十二使徒は四半期ごとの集会を開いていた。椅子の状態はあまり良い状態ではなかった。椅子によってはリクライニング機能が壊れており,中にはまっすぐ座れないものもあった。そしてほとんどの椅子の黒い革は多少ひび割れたり破れたりしていた。
数年前,だれかが,修復が必要であるという促しを受けて,その部屋は黄色にリフォームされ,その古い椅子は廃棄された。その古い椅子は使用されていない廊下に積み重ねてあったように思う。わたしたちはその古い年季の入った革張りの椅子はどうなるのだろうかと思った。ある日,大管長会から,十二使徒評議会の使徒たちにその古いリクライニング式椅子を一つずつ提供するので,自分の好きな色に張り替えてよいという発表があった。そこでわたしたちは自分たちがもらった椅子を持ち帰り,リビングルームの装飾と合うようにピンク色に張り替えた。
その椅子はとても座り心地がよくリクライニング機能もきちんと機能した。そして,新しい人々が我が家を訪れると,わたしはよく彼らにわたしの『使徒の椅子』に座ってもらい,話をした。その話とは,その椅子は恐らく教会の6人の預言者であり大管長が何度も腰掛けたものであり,また,恐らく25人ないし30人あるいはもっと多くの使徒たちが,十二使徒評議会に加わったときから先任使徒になっていく際に多くの集会で腰掛けてきたものであるといったものである。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長,デビッド・O・マッケイ大管長,ジョージ・アルバート・スミス大管長,ヒーバー・J・グラント大管長,ジョセフ・F・スミス大管長,また間違いなくロレンゾ・スノー大管長およびウィルフォード・ウッドラフ大管長,そして恐らくジョン・テーラー大管長もみなわたしのこの椅子に座ってきたことだろう。そして現在,難題を抱えながら,わたしは多くの夜,この椅子で眠ってきた。」
(キンボール大管長の個人の日記より抜粋,マック家により提供。)
福岡伝道本部の訪問者はその椅子に座るよう勧められることがよくある。そしてその椅子は間違いなくキンボール大管長についての話につながり,その前の預言者や使徒たちのことについて回想する機会につながるのである。
「世界中の人々がキンボール大管長を愛していました。そしてその人たちはキンボール大管長にゆかりのあるものを目にするとキンボール大管長から感じた愛やキンボール大管長に対して抱いていた愛を思い起こします」とマック会長は説明する。「『この使徒の椅子』を眺めたり座ったりすると思い出がよみがえり,昔の楽しくかつ啓発を受けた日々を思い起こします。」
福岡伝道本部特有の特徴は日本福岡神殿の階下が伝道本部の建物となっていることである。
「わたしたちが伝道本部に住んでいる間,福岡神殿とそれほど近い伝道本部にキンボール大管長の神殿の椅子があるということはぴったり合っていると思いました。」
その椅子の上のところに,教会旧機関誌「Ensign(エンサイン)」のカメラマンが撮影したキンボール大管長のきれいな写真が飾ってある。マック伝道部会長とマック姉妹はマットボードに写真の原本を貼って保管している。
「わたしたちは時々その写真を人々に見せていましたが,とても古い写真でした」とマック姉妹は説明した。「そこで,友人の一人が驚いたことにその写真をきれいは額に入れてくれました。」
また,マック夫妻は伝道本部のリビングルームに歴史記録としてキルトを飾っている。そのキルトは手縫いのキルトでキンボール大管長の生涯の重要な時期を表したもので,農場で働いていた少年時代,ミズーリ州での伝道,カミラ・アイリング・キンボール姉妹とのコートシップ,J・ルーベン・クラーク長老から使徒として召されたこと,4人の子供たち,世界中を巡回したこと,執筆した書籍,その他の重要な出来事が描かれている。
「そのキルトと椅子はともにわたしたちに,わたしたち家族の歴史や教会歴史について分かち合ったり,また,訪問者が自分の人生について思い返したり,恐らく幾らか個人の霊感や啓示を受ける経験を提供する機会を数多くもたらしてくれています」とマック姉妹は述べた。「地域会長会のメンバーとその夫人をはじめ,可愛い初等了解の子供たちに至るまで多くの訪問者が皆その椅子に腰かけ写真を撮りました。それはすばらしい話の種になっています。」
また,マック夫妻はキンボール大管長の杖も数本受け継いでおり,その杖も伝道に携えてきた。
「祖父は枝を切ってそれを削って歩行用の杖にするのが好きでした。ある程度使用すると,祖父のガレージの壁に掛けては,別の杖を作っていました」とマック伝道部会長は思い出を話した。「祖父が亡くなったとき,ガレージの壁には何十本もの杖が飾ってありました。」
「椅子,キルト,写真,それに歩行用の杖,これらの品はわたしたちの日本友人たちに,はるばるユタ州や教会歴史博物館を訪れなくても,キンボール大管長の生涯の一片を垣間見る機会を与えてくれます。それはわたしたちが放送したり宣伝したりしたものではなく,ただ,訪問者が静かにキンボール大管長とつながり,何かを感じる機会になるよう利用してきたものです。」
使徒として,また,預言者として,キンボール大管長は何度か日本を訪れた。最も有名なものは,1975年に東京において初めて開催された日本地域総大会であった。その大会にて,キンボール大管長は東京神殿の建設の発表を行った。5年後の1980年に,キンボール大管長は再び日本を訪れ東京神殿を奉献した。それより前の1970年に,使徒としてキンボール長老は沖縄の教会員と軍人を訪問している。沖縄は現在福岡伝道部に属している。
マック夫妻は今年の6月に伝道部会長の召しを完了する予定である。そして,『使徒の椅子』とその他の品も一緒にユタ州に持ち帰る予定である。
「それはわたしたちがずっと宝物として持ち続けることのできる他にはないわたしたちの伝道の一部になっています。その椅子に座る機会をあずかった人々もまたその思い出を大切にしてくれることを願っています。」