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法と自由のバランス

国際的宗教の自由シリーズ 連載第6回(全7回)

宗教の自由はどこから来たのだろうか?

この質問に対する答えは、千差万別である。ある人は、それは神からの贈り物だと信じている。他の人々はそれは正義の本質にもともと組み込まれているのだと言う。またある人々は、時代の関心時や環境に応じて人が創造したものだと考える。神、自然、法律、これらの要素のすべてが、宗教の自由にかかわるわたしたちの経験を形作ってきたのだ。神への信仰は、そこに霊的な意味をもたらしてくれる。正義の要求は、倫理的な土台を与えてくれる。しかし、法による庇護なくしては、宗教の自由は単なる願望で終わってしまうのである。

 

欧州人権条約やアメリカ独立宣言、世界人権宣言などの文書には自由の理想が保たれており、世界中の政府の行動に影響を与えている。その文言は、尊厳、自由、平等、不可侵の権利と言った美しい道徳的規範を作り出すが、それらはもし法律に組み込まれ、社会の支持を受けなければ、ほとんど拘束力を持たないのである。

国の政府、文化、価値観によって法律は異なるが、自己決定への切望は同じである。人は誰でもその心に敬意や人道的な扱い、個人や信仰をともにする仲間と共に信仰を実践する場を渇望する思いが植え付けられている。つまり、法律が作られる前から人がそれを期待していると言う意味で、宗教の自由は基本的人権の一つであると言うことができる。

宗教の自由は絶対的なものではない。今日においても、歴史を通しても、宗教の名のもとに、テロや人種間の暴力、殺人、略奪、虐待などと言った恐ろしい悪事を働いてきた人々がいる。法律は、正当な方法でそのような行為を禁じ、未然に防ぐための防衛手段となる。宗教の自由は、暴力的になったり、市民の安全や健康を脅かしたり、人の所有物を盗んだり、破壊したり、弱者を食いものにしたりする権利を包含しないのである。幸いそういった自由の悪用はあくまでも例外であり、宗教を持つ個人やグループのほとんどは、尊厳と平和的な手段をもって自分の信仰を実現する自由を望んでいるだけであり、礼儀正しい行動をわきまえる人々なのである。

各国にはそれぞれ宗教的な事柄を取り扱うための法律が定められている。もしそのような法律がなければ、社会の中で多様な集団が互いに良い関係を築くための共通の基盤となるものがなくなってしまう。ある人々は、外国から来た宗教は彼らの国がもともと持っていた文化的価値観や一体性を損なってしまうと恐れている。しかし、それぞれの宗教がその国の法律を守り、責任ある行動を取り、共通の利益に対して貢献するならば、その恐れを和らげることができるであろう。

しかし、もし法律の方が道を誤り人権を侵害するならば、そのような状態を正すために、信仰を持つ人々も含めて良識のある人々が、法律に則した方法で声を挙げることが大切である。法律に反した方法で宗教の自由を追求するならば、その努力は無に帰することだろう。公正な法律に対して適切な敬意を払うことこそが、不当な法律を合法的に改革するための最良の土台となるのである。

書式ガイドの注釈:末日聖徒イエス・キリスト教会に関する記事で,教会の名称を最初に引用する際には,正式名称を使うようお願いいたします。教会の名称の引用に関する詳しい情報は,こちらへ: 書式ガイド書式ガイド.