ニュースリリース

長嶺顕正兄弟が逝去される

沖縄初の日本人地方部会長・ステーク会長,また東京神殿会長を歴任

沖縄の教会の礎を築いた開拓者,長嶺顕正(ながみね・けんせい)兄弟※1が,2025年2月14日に逝去されました。享年88。

長嶺兄弟は1936年10月,沖縄県那覇市に生まれました。8歳のある日,父親と兄が帰って来るなり「米軍の上陸が迫っているので,すぐに避難するように」と伝えます。身重の母親の玉子(たまこ)さんは6人の子どもたちを連れて北部の名護(なご)まで辛うじて逃れました。父親と兄はそのまま帰らぬ人となり,母親は女手ひとつで7人の子どもたちを育て上げることとなりました。

長嶺兄弟が高校を卒業し,就職のためタイプ学院に通っていたとき,高校時代の親友に誘われて教会の英会話に出席しました。そのうち彼は教えに興味を持ちます。救いの計画について「この教えはどこかで聞いたような」と心に強く感じるものがあったと後に語っています。1958年,21歳でバプテスマを受けました。しかし,家の仕事も手伝わず教会にばかり行こうとする,と家族からは反対されていました。窓から家を抜け出して教会に集ったこともありました。

その後,就職して銀行員となり,教会で平良弘子(たいら・ひろこ)姉妹と出会って結婚,幸福な家庭を築きます。朝は家族の祈りと聖典輪読で始まり,家庭の夕べを忘れず,安息日を聖く守るよう努めました。伴侶の弘子姉妹は,長嶺兄弟と本音で語り合い一度もけんかをしたことがない,と語ります。家族の伝統は今も子どもたちに受け継がれています。子や孫に先祖への感謝を忘れないよう教え,家族をとても大切にする長嶺兄弟の姿を見て,母親の玉子さんの心は和らいでいきました。

1962年,日本人初の沖縄地方部会長に召され,教会堂の建築と伝道に力を入れました。1980年に沖縄那覇ステーク※2が組織されると初代ステーク会長に召されます。1995年にステーク祝福師に召されると,長嶺兄弟はその任にふさわしくあろうと断食と祈りを繰り返しました。

1997年夏のある早朝,電話が鳴ります。─「長嶺兄弟,お元気ですか?」ゴードン・B・ヒンクレー大管長から直接の通話でした。日本東京神殿の第8代神殿会長に召されたのです。「わたしは信仰も弱く知識もありません」と大管長へ答えたものの,戒めを守り全力を尽くすときに主は御手を差し伸べてくださることを長嶺兄弟は知っていました。長嶺ご夫妻は,多くの人に慕われつつ3年間の任期を全うします。

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Bro Nagamine in front of the Okinawa Japan Temple
Bro Nagamine in front of the Okinawa Japan Temple
2023年11月に奉献された日本沖縄神殿にて、結び固め執行者として奉仕した長嶺顕正兄弟 2025 by Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved.
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ステーク会長在任中の長嶺兄弟は常に,沖縄戦で不本意な生涯を終えた多数の住民や日米の軍人たちが地の中から救いを求めているように感じていました。1983年に発表されたステークのビジョンには,「沖縄伝道部,沖縄神殿,ブリガム・ヤング大学沖縄校」の3つがありました。

それから40年後の2023年,日本沖縄神殿が奉献されます。積年の思いの結実である神殿を仰ぎ見ながら長嶺兄弟は半年間,結び固め執行者として奉仕しました。

長嶺兄弟が沖縄那覇ステーク会長を解任されたとき,十二使徒だったヒンクレー長老は彼の傍に立ってその労をねぎらいました。それを見ていたある会員の心に聖書の一節が浮かびます。「『良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」※3  その場面は,長嶺兄弟の歩んだ人生をまさに象徴するものでした。◆


※1─末日聖徒イエス・キリスト教会では、すべての人が神様の子どもであるとの教えから、男性を「兄弟」、女性を「姉妹」、伝道の責任を受けている男性を(実年齢にかかわらず)「長老」と呼称する

※2─末日聖徒イエス・キリスト教会の管理区分を示す地理的単位。ある地域にある幾つかの教会がまとまって「ステーク」または「地方部」を構成する

※3─マタイ25:21

書式ガイドの注釈:末日聖徒イエス・キリスト教会に関する記事で,教会の名称を最初に引用する際には,正式名称を使うようお願いいたします。教会の名称の引用に関する詳しい情報は,こちらへ: 書式ガイド書式ガイド.