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鈴木政子姉妹が逝去される

鈴木正三兄弟と共に歩んだ開拓者の、喜びに満ちた人生

日本の教会の開拓時代から人々を支え続けた鈴木(加藤)政子(すずき・かとう・まさこ)姉妹が2024年11月6日に逝去された。享年95。

加藤政子さんは1928年(昭和3年)に生まれた。幼少時は山梨県甲府の祖父母のもとで愛されて育つ。近所の友達とよく河原で遊んだ思い出から、晩年に至るまで石を集めるのが大好きになった。祖父は幼い政子さんをよく神社参りに連れて行き、信仰心が養われる。小学1年生のとき祖母が亡くなり、横浜の両親の元に帰った。母親は教育熱心で、子供たちに習い事をさせてくれた。優しい母は、昔の苦労話を語ったり、布団作りを教えてくれたりした。

横浜の貿易会社(日吉回漕店)に就職した政子さんは、終業後の夜に近くの山手英学院へ通って英語を学んだ。そこで宣教師に出会い、福音を英語で教えられる。誘われるままに末日聖徒イエス・キリスト教会の集会に参加した。「この福音が真実だということが分かったら,友達に知らせなさい。次の世に行ってから友達に,すばらしい福音を知っていながらなぜ教えてくれなかったのと言われますよ」── そう宣教師に聞かされた政子さんは,会社の同僚や上司へ熱心に声をかけ,教会へ行きましょう,と誘う。数人が MIA(相互発達協会)の演劇活動に参加してくれた。菊池寛の『父帰る』などを上演したという。ただ、安息日の集会に来てくれたのは一人,政子さんの隣の席で働いていた鈴木正三(しょうぞう)さんだけだった。

1952年1月の第一日曜日,鈴木正三さんは政子さんに連れられて,旧国鉄保土ヶ谷駅付近の山手にある富士見学園で開かれていた集会に足を運ぶ。二人は証を得て、1952年8月4日、東京・広尾の日本伝道本部(現在の東京神殿の地所)にて揃ってバプテスマを受けた。翌1953年4月29日、バイナル・G・マース伝道部会長の司式で結婚する。今日、9人の子供、42人の孫、66人のひ孫から成る大家族の始まりであった。

大阪時代

1961年に鈴木正三兄弟は仕事で大阪へ移り、日本西中央地方部の初代地方部会長に召された。1965年7月の日本人初の神殿団体参入にも指導者として尽力する。ハワイ州ライエ神殿を訪れた鈴木ご夫妻は、自身のエンダウメントと夫婦の結び固め、親子の結び固めを受けた。

1968年には、日本伝道部から分割された日本沖縄伝道部が神戸に置かれ、正三兄弟はエドワード・Y・岡崎伝道部会長の第一顧問に召される。その後の1970年大阪万博では、正三兄弟が、モルモンパビリオンを訪れた皇太子殿下(現在の上皇陛下)の説明役を務めるなど、教会の前面に立って活躍した。1972年には、日本人で2人目の祝福師に召された。

日本の高度成長時代にあって「残業だけで月100時間くらいやった」という正三兄弟。さらに地方部会長として忙しく働き、毎日の帰宅は深夜になった。鈴木正三兄弟は2003年のインタビューでこう話している。「でもよく彼女はやってくれましたよ。わたしはいないしね。文句一つ……言いたかったんでしょうけど,地方部長の妻だからということで半未亡人として……。お向かいの家の人が言うんだって。お宅のご主人,顔見たことないんだけど,不思議な男がやって来てよく助けるなあって。それホームティーチャーなんです。(笑)」

政子姉妹は苦しい家計を家庭菜園で補い、毎週、9人の子供たちを連れて長い道のりを教会へ集った。長女の眞理子(まりこ)姉妹が先頭,赤ん坊を背負い幼児の手を引く母親の政子姉妹をしんがりに子供たちが列を成し「カルガモのようにして」,大阪の南、和泉府中駅まで徒歩30分,電車で20分,天王寺駅から阿倍野の教会まで徒歩20分の道のりを通い続けた。聖餐会では子供の世話に一生懸命で,ゆっくりお話を聞けたためしがなかった。しかし政子姉妹は,毎月断食証会には必ず壇上に立ち,子育ての経験から来る証を述べたという。

「その証にはわたしたちが登場するのでどきどきして聴いていました。母はそうしてわたしたち子供に語りかけていたのだと思います」と眞理子姉妹は2003年のインタビューで語った。「母の祈っている姿,忘れられないです。……長いんですねえ,母の祈りは。父の,いつも朝早くから起きて聖典を読んでいる姿も忘れられません。また父が母をすごく尊敬して愛しているということは子供心ながら強く感じました。誕生日など,母がほんとうに必要としているものを,経済的に大変な状況にもかかわらずプレゼントしたり……福音の中で育てられてきて,両親が教会の教えを取り入れれば取り入れるほど変わっていくのを目の当たりにしてきました。」

多くの人に慕われた奉仕の人生

1976年7月から3年間、正三兄弟は日本札幌伝道部会長に召され、家族で赴任する。

それから40年後の2016年、日本札幌神殿の奉献式を政子姉妹と一緒に訪れた五女の周 恵美(しゅう・えみ)姉妹はこう振り返る。「たくさんの帰還宣教師の方に会ったときに、お母さんの『スピーチが好きだった、励まされた』(と言われて)そのときにわたしは、お母さんがすごく人気のある話者だということが分かりました。お母さんにそのことを言うと『そう? もう覚えてないわ。その時々に言葉が神様から与えられたのよ』と言っていました。」

日本東京西ステークの上野 誠(うえの・まこと)会長はこう回顧する。1980年代に鈴木ご夫妻を招いてファイヤサイドが開かれたとき、鈴木家の子供たちが若い世代になって多くの若い兄弟姉妹たちに親切にしている、と称賛された政子姉妹は、こう答えたという。「子供たちが人に親切にしているのはとても喜ばしいことです。でも、親切とは、親を切なくさせると書きます。子供たちがかえって皆さんにご迷惑をかけているんじゃないかと思って心配です。」

謙遜で、いつも「ありがとう」と周囲に感謝を示す政子姉妹は、親族のみならず、多くの人に尊敬され愛された。

鈴木正三兄弟が教会教育部を定年退職してからも、夫婦で奉仕の人生を歩んだ。

1992年 神戸伝道部夫婦宣教師

1997年から1年半 東京神殿会長会顧問・メイトロン補佐

2003年11月から2005年4月 ソルトレーク教会本部の家族歴史夫婦宣教師 日本担当部門で奉仕

2006年 東京神殿夫婦宣教師

2012年のクリスマスイブに、81歳の正三兄弟を幕の向こうに見送ってからも、政子姉妹は家族と共に明るく前向きな生活を続ける。

モネ、ミレー、ゴッホといった西洋絵画を愛し、歌や短歌や俳句づくりを楽しみ、よく歌を口ずさんだ。家事の一つ一つを丁寧に行い、たくさんの孫たち一人一人の誕生日には電話をしてお祝いした。そうした政子姉妹の横顔を、告別式では子や孫が心を込めて分かち合った。

政子姉妹は聖文と賛美歌と神殿が大好きで、最晩年に至るまで儀式執行者として東京神殿で奉仕を続けた。孫の三牧泰子(みまき・たいこ)姉妹はこう振り返る。「わたしが神殿に行ったときは、いつもおばあちゃんが白い神殿着で温かい笑顔で迎えてくれた姿をよく覚えています。」

政子姉妹は、家族歴史の冊子『わたしの家族』に、丁寧な自筆でこう記している。「私の人生は感謝に感謝、心から天の父なる神様とイエス・キリスト様に感謝し、家族のみなさまにも感謝しています。」

鈴木政子姉妹は、イエス・キリストの福音に生きる喜びを体現した開拓者であった。◆

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