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家族の一人が専任宣教師として奉仕することでさえすばらしいことであるが,4人のきょうだいが同時期に宣教師として奉仕をすることを想像できるだろうか。この心を高揚させる話は兵庫県に住む中川家族に実際に起こった話である。
中川家族の4人の子供たち,宗斗(しゅうと),凜菜(らんな),舞希(まいき),幸訪(こうと)は全員日本で伝道した。中川家族は最初から4人の子供が全員一緒に伝道に行くようになることを考えていたわけではない。しかし,子供たちは両親である中川信幸兄弟と敏恵姉妹が二人とも伝道をした経験があることから,伝道の業を愛する環境で成長してきた。中川兄弟は日本岡山伝道部,中川姉妹は日本大阪伝道部でそれぞれ宣教師として奉仕した。
「妻とわたしは二人とも宣教師でしたので,伝道の業の祝福と喜びをよく知っています。また,同時にそれに伴う困難もよく知っています」と中川兄弟は話す。「わたしは子供たちに,機会があれば全員伝道に出てほしいと常に思っていました。また,もちろん,わたしたちは子供たちが二世の会員で福音の中で育った場合,自分自身の証を得る必要があるということも知っていました。」
中川兄弟と姉妹は子供たちの歩んできた道についてこのように説明している。「長男は家業を手伝っていたので,25歳になるまで伝道に行くことができませんでした。その後,長男が伝道に出てから2か月後に,次男が伝道に出ました。その1か月後に長女が伝道に出て,それから次女が伝道に出ました。とても嬉しいです。」
長男である宗斗兄弟は2019年5月から2021年6月まで日本札幌伝道部で伝道した。彼は,伝道に出る決心ができたのは,教会のインスティテュートのおかげであると言う。「わたしはまた弟や妹たちの良い模範となりたいと思いました」と宗斗兄弟は話す。
きょうだいの2番目で長女の凜菜姉妹は最初から伝道に行く計画をしていたわけではなかった。しかし,ヤングアダルトとして,教会の中で成長することで受けてきた多くの祝福を理解するようになった。「わたしは,自分と同じ年代の若い人々が福音を知らないために困難な状況に陥っているのを目にしてきたので,もっと多くの人が喜びを見いだせるよう助けるために伝道に出る決心をしました。」
また,凜菜姉妹はきょうだいたちが伝道に出ることについて話をしているのも耳にした。「きょうだいたちが伝道に出る話をしていたので,わたしも多分伝道に出るべきだと思いました」と彼女は話す。「わたしの最初の伝道の召しはユタ州ソルトレーク・シティー伝道部でしたが,コロナウィルスが蔓延したために行くことができませんでした。そのため,ビザが下りるまでの間,東京北伝道部で奉仕しました。その後,日本福岡伝道部に召しの割当てが変更となりました。」
きょうだいの3番目で次女の舞希姉妹は次のように話す。「祖父母が改宗して以来,わたしは教会員の家庭で育ちました。しかし,わたしは小学生のときから高校生までバスケットボールをしていましたので,7年間教会に集っていませんでした。バスケットボールをやめてから,教会に再び集う決心をしました。教会堂に足を踏み入れ,やさしい人々からあいさつを受けたときに感じた気持ちを決して忘れません。わたしはとてもたくさんの愛を感じました。また,わたしは神様がイエス・キリストの福音の中で,わたしたちが戒めに従うときにわたしたちを祝福してくださるという約束を思い出しました。わたしはずっと祈りや聖文の研究や教会に集うことをしていませんでしたが,神様はそれでもわたしに成長する機会を与えてくださいました。」
舞希姉妹は証を得て,やがて伝道に出る決意をした。彼女は最初アリゾナ州フェニックス伝道部に召された。ビザが下りるのを待っている間,東京南伝道部で奉仕をするよう割当てを受け,後に,ちょうど姉の凜菜姉妹と同じように,日本福岡伝道部に召しの割当てが変更になった。
凜菜姉妹と舞希姉妹は同じ伝道部で同じ日に伝道を終えた。二人は宗斗兄弟が札幌伝道部から帰還してから数週間後に帰還した。
一番下の幸訪兄弟は今年8月に帰還する予定である。幸訪兄弟は最初カナダ・バンクーバー伝道部に召されたがコロナウィルスのパンデミックが始まった後,日本名古屋伝道部に召しの割当てが変更になった。
4人のきょうだいは日本で伝道している間,お互い同士から力を得た。
「毎週電話で話すのがほんとうに待ち遠しかったです」と凜菜姉妹は話す。「兄や弟と妹と話をし,彼らの経験から学ぶことはとても役に立ちました。わたしたちは全員お互いに励まし合い,体験した奇跡や学んだことを分かち合いました。」
幸訪兄弟は次のように話す。「自分のきょうだいたちと同時に伝道の奉仕をすることによって,自分の宣教師としての目的に集中するうえで助けとなりました。また,人々を教える様々な方法を聞いたり,ほかの伝道部の文化について学ぶことができたりして良かったです。」
舞希姉妹は次のように振り返る。「わたしの伝道で最もすばらしかった経験は同僚交換で何度か姉の凜菜と同僚になったことです。そのときは,わたしたちはほんとうの姉妹宣教師でした。わたしたちは一緒にレッスンを教えました。それはすばらしかったです。わたしたちは同僚として『一つになる』ことがほんとうにできたと感じました。」
宣教師として奉仕するうえで面白かった一面は中川家のきょうだいたちの名前であった。中川兄弟は大のバスケットボール好きであり,それが理由で,子供たちにバスケットボールに因んだ名前を付けた。宗斗は「シュート」,凜菜は「ランナー」,舞希はマイケル・ジョーダンのニックネーム「マイキー」,そして幸訪は「コート」から取った名前である。中川兄弟は次のように振り返る。「わたしは学校でバスケットボールをすることと観戦することが大好きでした。そこで,子供たちにバスケットボールに因んだ名前を付けました。伝道中,子供たちは自分たちの名前を話題にして自己紹介をしたり,自分の家族について分かち合ったりすることができました。子供たちの名前は,ほかの人々と楽しく話をしたり,分かち合ったりすることのできる話のたねです。」
もちろん,4人の子供を同時に伝道に送り出すには信仰が求められる。
「最初,夫は同時に4人の宣教師の資金を援助することについて心配していましたが,わたしたちは信仰をもって前進しました」と中川姉妹は話す。「初めは,子供たちが貯めたお金を使いました。しかし,すぐにわたしたちのお金は足りなくなり始めました。」
「そのときにちょうどコロナ禍に見舞われました」と中川兄弟は話す。「わたしは収入が減ることが分かっていましたが,妻はわたしに信仰をもつように言い続けました。彼女はわたしに,もし上手く行かないのであれば,主は同時4人の宣教師を召すことはなさらないと言いました。何とか,わたしたちは生計を立てながら,4人の宣教師の費用を賄うことができました。それは奇跡でした。」
この家族の信仰を強めた聖句の一つはマラキ書3章10節,「…これをもってわたしを試み,わたしが天の窓を開いて,あふるる恵みを,あなたがたに注ぐか否か見なさい…」であった。「確かに,この聖句の約束はわたしたち家族にとって成就しています」と中川兄弟は話す。
伝道を終え,4人のきょうだいたちの将来の計画は変わった。しかし,彼らは全員「主からの務め」(モルモン書ヤコブ1:17)に携わった日々を常に大切にしていくであろう。
凜菜姉妹は次のように話を終えている。「どこに伝道に召されようと,わたしは会う必要がある人々を見つけました。ソルトレーク・シティーに行くことはありませんでしたが,東京と福岡において,神様はわたしを会うべき人々のところに導いてくださいました。これはほんとうに主の業です。」