ソルトレーク・タバナクルの壇上から話をしたのは、モルモンの人々だけではありません。多くのアメリカ大統領も話をしたことがあるのです。大統領の日にちなみ、この由緒あるテンプルスクエアの建物へのそれぞれの大統領の訪問と、その背後にあった幾つかの興味深い事柄について紹介しましょう。
1.ジョン・F・ケネディ
1963年9月26日、ジョン・F・ケネディ大統領はソルトレーク・シティーに到着し、テンプルスクエアのタバナクルにおいて、アメリカ大統領として歴史的なスピーチを行いました。
3年前にも大統領候補としてこの由緒ある建物でスピーチをしてはいたものの、1963年の訪問に際して、大統領はジョセフ・スミスやブリガム・ヤング、末日聖徒の聖典などに言及しながら、統一された国や世界を作ることについて力強く語りました。話の冒頭で彼は次のように話しました。
「アメリカの開拓者や入植者たちの物語の中で、モルモン・トレイルの物語ほどわたしたちの心を動かしてくれるものはありません。このコミュニティを築いた方々が持っておられた資質こそが、わたしたちがアメリカに求める資質であり、この国が持っていてほしいと願う、勇気、忍耐、信仰、自立、根気強さといった資質であり、また何にも増して義の勝利を見届けんとする不断の決意という資質なのです。」
彼はのちに、「我々があきらめたり後戻りしたりしなければ、モルモンの方々が成功したようにアメリカも成功することができるのです。」と述べました。それから2か月も経たないうちに、彼はテキサス州ダラスで銃撃され、殺されています。
彼のスピーチは今日においても人々の記憶に残っていますが、末日聖徒のトレードマークとなっているこの建物の壇上から記憶に残る言葉を語った訪問者は、実は彼が初めてではなかったのです。アメリカ大統領から飛行機のパイロットまで、この世に誉れ高いソルトレーク・タバナクルにおいて演説をした幾人かの著名人を以下にご紹介しましょう。
2.セオドア・ルーズベルト大統領
1903年5月29日
セオドア・”テディ”・ルーズベルト大統領は、ソルトレークを訪れた最初の大統領ではありませんでしたが、タバナクルで演説をした最初の大統領となりました。彼はその演説の中で、ユタの人々の一致と資源の賢明な活用を称賛しました。
「あなたがたは、例え天然資源や法律といったものが有益ではあるとしても、繁栄と文明を築くための根本的な要件となるのは、個々の男女が持つ個人的な資質に関する要件であると言う、わが国民がいつまでも鮮明に記憶に留めておくべき原則の体現者です。あなたがたは、当初その砂漠にちなんで名づけられた州を取り、比喩的にではなく、まさに文字通り、荒れ野をばらのように花咲かせたのです。」
3. ウィリアム・ハワード・タフト
1909年9月26日
タフト大統領は、ある日曜の朝、タバナクルで演説をし、次のような言葉で話し始めました。
「わたしは皆さまから受けた歓待と好意に対し、心からの感謝を申し上げたいと思います。皆さんがこの荘厳な建物にお集まりになった理由の一つはわたしの言葉に耳を傾けるためであり、このような素晴らしい集まりにふさわしい話を自分は何も持ち合わせていないと言うことを思い、わたしは重圧を感じていました。しかしながら、わたしは前任者にならい、この日曜の朝に少しでも説教らしく聞こえるようなお話を皆様にするよう努める必要があると感じました。説教と言うものは、得てしてお話の内容に多少関係のある聖句の引用から始まるものですから、わたしも箴言の聖句を引用したいと思います。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。」
演説が終わりに差し掛かった時、彼はこう付け加えました。
「わたしの友人である皆さん、わたしはこれほど偉大な聴衆、国家に対するより高い考えや愛国心を沸き立たせてくれる聴衆に対して、自分の中に目覚めた深い感情や皆様の歓待に対する感謝の気持ち、そしてその歓待の源となっている国旗と国歌に対する皆様の忠誠心について言及せずにいることはできません。」
1911年10月
タバナクルへの2度目の訪問に際して、タフト大統領はユタに住む高齢者の方々に向けて話をされました。集会ではC. W. ニブリービショップが司会として大統領を聴衆に紹介し、モルモンタバナクル合唱団がほとんどの音楽を提供しました。
4.ウッドロウ・ウィルソン
1919年9月23日
ウッドロウ・ウィルソン大統領は、ソルトレーク・シティーに到着したときに気分が優れず、タバナクルでの演説と中央扶助協会会長のエメリン・B・ウェルズ姉妹との会談以外のすべての予定をキャンセルしました。ウェルズ姉妹は、政府が第二次世界大戦中に20万ブッシェルの小麦を扶助協会から購入するのを助けたことがあったのです。大統領はこの後一か月もたたないうちに脳梗塞を発症しました。
ウッドロウ・ウィルソン大統領は、タバナクルでの演説の中で、第一次世界大戦の終わりにまとめられた講和条約により規定された国際連盟への支持を獲得しようと試みました。中でも道徳的責任について述べた以下の注目すべき言葉は、特に末日聖徒の共感を得たのではないでしょうか。
「道義的な力以外に米国に何かを行うよう強いることのできる力は存在しません。誇り高きアメリカ国民の中に、アメリカが義務を果たすように求める力に対して抵抗するのではないかと恐れる人がいるでしょうか?わたしはこの国の持つ偉大な良心を強烈に自覚しています。世界中の道義的な力はみな同じ側にいると述べたグラント大管長の言葉は必然であり、厳かで、偉大です。それらの力が異なる側にいることなど、まさにあり得ないのです。」
5.ウォレン・G・ハーディング
1923年6月26日
ウォレン・G・ハーディング大統領はアラスカへ向かう西方への旅行の一部としてソルトレーク・シティーに立ち寄りました。彼は火曜日の夜にソルトレーク・タバナクルで「税制と支出」について話しました。演説の冒頭で、彼はユタの人々に以下のような賛辞を贈りました。
「皆さんがわたしたちをどれだけ幸せな気持ちにしてくれたか、言葉では言い表すことができません。この素晴らしい州の美しい街において皆さんがわたしたちのために催してくださった歓迎会ほど、親切で心のこもった、人を鼓舞してくれる歓迎会は世界のどこにもないでしょう。わたしは自分が大統領という身分になく、原稿をわきに放り投げてただ皆さんと語らうことができたらいいのに、と願いそうになってしまうほどです。」
そして彼は演説をこのような言葉で終えました。
「新たな希望と約束を胸に抱こうではありませんか。そしてわたしたちの子どもたちやそのまた子どもたちに、人生とは犠牲として捧げられるためにあるのではなく、全能の神の目にふさわしいものとなるというより大きな目的を果たすためにあるのだと言えるような者になろうではありませんか。」
6.ハーバート・C・フーバー
1932年11月7日
ユタで再選運動をしている最中、ハーバート・フーバー大統領は1万人以上の聴衆を前に演説しました。彼は冒頭でユタにある自分のルーツについて言及しました。
「わたしはソルトレーク・シティーに何度も来たことがあります。わたしは西部出身ですし、わたしが最初に従事した仕事の一つは、この州での水路工事においてチェーンを運んだり杭を打ったりする作業でした。生まれ育った西部に戻ってこられたこの2日間は、素晴らしい息抜きになりましたし、大きな刺激を受けました。わたしはこの州に縁があるのです。」
もちろん彼は当時の深刻な経済恐慌や戦争回避への決意と言った懸案事項についても語りました。
「わたしは戦争という破壊的な毒薬が、本来なら美しい理想主義が花開くべき国民の道徳的理想を侵略し、忌まわしさと冷笑主義をもたらしているのが見えます。戦後平和と言いながら、その実、民族的憎悪の火はくすぶり続けています。ですから、わが政権の大きな目標は、この国の外交政策を他国との友好を軸にした昔ながらの平和を守る方向へと誘導していくことなのです。」
7.フランクリン・D・ルーズベルト
1932年9月17日
まだニューヨーク州知事であった当時、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はタバナクルで選挙演説をするためにソルトレーク・シティーに立ち寄りました。彼よりも前や後に演説をした人たちと同じように、ルーズベルト知事はユタの人々の手厚いもてなしと親切を高く称賛し、開拓者の遺産を称えました。
「ここソルトレーク・シティーへの訪問は、わたしの喜ばしい旅におけるハイライトの一つです。わたしはその舞台となった場所を自分の目で見たので、この盆地に85年前に到着したあなた方の州の功労者が『まさにこの地である!』と叫んだ様子を容易に思い浮かべることができます。そしてその様子を思い返すたびに、わたしはそれを可能にした素晴らしいアメリカの開拓者たちに改めて敬意を表したくなるのです。」
8.ハリー・S・トルーマン
1948年9月21日
ソルトレーク・シティーを訪問し、タバナクルで演説をした他の大統領たちと同じように、トルーマン大統領もユタの資源の価値について語りました。また彼は、自身の祖父ヤングとブリガム・ヤングの交流についても言及しました。
「今日わたしはブリガム・ヤングの後任者であるモルモン教会の大管長に最も手厚い歓待を受けています。年老いた祖父が今のわたしの様子を見ることができたらよかったのにと願っています。」
彼はモルモンの開拓者の献身と賢明な資源の利用についても何度か言及しました。
「開拓者たちは信仰と精力を持ち、自然の恵みである資源を賢明に用いました。彼らの勇気と闘志が彼らを敵から守りました。
彼らは偉大な遺産をあなた方に残しました。今あなた方には、この地域の資源を賢明に用いる責任と、あなた方の権利と福利を脅かす敵からそれらを守る義務があるのです。
この地域の農家や畜産農家の繁栄にとっての魔法の言葉は何でしょうか。それは水です。モルモンの入植者たちがここに来て無事に到着したことを神に感謝した後にまず最初に取り組んだのは、灌漑用水路を掘ることでした。彼らはわかっていたのです。農耕と放牧をするのに十分な水さえあれば、あなた方の繁栄の土台は保証されたも同然だと。」
9.ドワイト・D・アイゼンハワー
1952年10月10日
1952年、アイゼンハワー大統領はタバナクルで大統領候補としての演説を行うためにソルトレークに立ち寄りました。Toledo Blade紙を含むいくつかの新聞が演説の抜粋を掲載しました。
「恐れと不信仰にとらわれて、アメリカは終わった、開拓時代は終わりを告げたのだ、などと言うことのないようにしようではありませんか。アメリカの歴史的な旅の中にあって、今こそこの約束の地をさらに前途を約束された地にするために進み続けるときなのです。」
10.リンドン・B・ジョンソン
1964年10月29日
ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺後、1963年に大統領に就任したリンドン・B・ジョンソン大統領は、来る選挙に向けての運動中にソルトレーク・シティーに立ち寄りました。演説の中でジョンソン大統領は、和平にむけてのソビエト連邦からの心強い返答について語りました。末日聖徒にとって特に共感できる言葉の中には、「感謝を神にささげん」について言及した部分が含まれています。
「わたしは人に関わる事柄が新しい時代に入ったと信じています。わたしたち、そして世界が進むことのできる方向は二つしかありません。わたしたちは昔の賛美歌の言葉にあるように永遠にわたる完全な状態へと向かって努力を傾けることもできます。もしくは、愚かで無謀なことに、世界が永遠にわたる破滅へと向かうのを許すこともできます。どちらにしても、わたしたちは決定的な役割を与えられています。今の世代の米国市民は、その変化が果たして人類にとって創造的なものであるべきかあるいは破滅的なものであるべきかを、ほかのどの世代にもまして、わたしたちの模範や取り組みによって判断することでしょう。」
さらに彼はこう断言しました。
「わたしたちはみな神の子供であり、わたしたちの私生活における真の道徳とは、自由社会における真の道徳、すなわち『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。』という黄金律なのです。」
11.リチャード・ニクソン
1970年10月31日
リチャード・ニクソン大統領は、これより以前に2度大統領候補としてタバナクルでスピーチをしたことがありましたが、アメリカ大統領として壇上から話をしたのは1970年10月31日が最初のことでした。当時アメリカはベトナム戦争のさなかにあったので、大統領は平和の確立に向けての進捗状況を報告しました。常日頃からタバナクル合唱団に魅了されていたニクソン大統領は、演説の冒頭でこのように言いました。
「わたしは、わたしの前にここに来られた方々、そして荘厳なタバナクル合唱団に敬意を表したいと思います。彼らが就任式に来てくださったことを非常に光栄に思いました。彼らがわたしのスピーチの後にもう1曲歌ってくださるように願っていますので、彼らの歌う時間があるようにわたしのスピーチは少し早めに終わりたいと思っています。」
彼は説教を終えるにあたり、末日聖徒の信心深さを高く称賛しました。
「ご存知の通り、わたしたちはホワイトハウスにおいて礼拝行事を行う習慣を導入し、それに対して、新たな進歩や決定にはつきものの批判を浴びてきました。わたしたちがこれを行ったのは、わたしがこの国の首都にさまざまな宗教の代表者たちを連れてくることが重要であると感じたからです。ほとんどの宗教の代表者が来てくださいましたが、大統領や閣僚、外交団、国会議員の方々が、民主党員でも共和党員でも、この国が世界中で最も偉大で豊かな国である一方で、アメリカの精神が健全で善良なものでない限り、その豊かさや強さは無いも同然だと言うことを思い起こすことができるように、とりわけ保守派の人たちを連れてくることが重要だと感じたのです。
そしてアメリカにおいて、それはここにおいてだけでなく、この国の他の場所においても、その強力かつ高潔なリーダーシップ、高い道徳的規範、良い時も悪い時もアメリカを前進し続けさせてきた精神に対して、この教会の会員ほど多く貢献したグループを、わたしは知りません。
12.ジミー・カーター
1978年11月27日
ジミー・カーター大統領は、全国家族週間の間にスペンサー・W・キンボール大管長から「家族の一致賞」を授与されました。タバナクルでの受賞スピーチにおいて彼はこのように話し始めました。
「皆様とともにこの美しい場所に集うことができることを光栄に思います。わたしはみなさまが思っておられるより少し早く到着し、わたしたちに家族における責任を思い起こさせてくれるまことに楽しく印象的なテレビ・コマーシャルの数々を拝見し、プライマリーの子供たちの歌う「神の子です」を聴き、アメリカ先住民グループLamanite Generationの演奏を聴き、そしてもちろん、わが国では非常に名の通った素晴らしいグループであるオズモンドファミリーとお会いしました。
そして後半ではこのように語りました。
「わたしにとってあなたがたは、道徳上の義務から堅固な家庭を信じ、家庭はどうあるべきかを具現化した偉大な教会です。また、人は違っていてもよいこと、そして人として成長し、より大きな奉仕に身を捧げるために自らを備える機会や義務があることを信じています。あなた方の教会が組織した扶助協会は、よく知られているような方法によっても、またひそかで効果的な方法によっても、何万人もの人々に祝福をもたらしています。」
13.ヘレン・ケラー
1941年3月
ヘレン・ケラーがソルトレーク・シティーを訪問したことは大きく報じられました。彼女は到着した日の晩にタバナクルでの集会に出席し、ヒーバー・J・グラント大管長から点字版のモルモン書を贈呈され、スピーチをしました。
当時の新聞はこのように報じています。
「現在の世界的な紛争に言葉に表せないほどの悲しみに暮れていると自らを表現しながら、最終的には地に平和を、人に良心をもたらしてくれる神の力を信じていると、ケラー女史は断言した。」
モルモンの著名な詩人であるエマ・ルー・テインは、ケラーの訪問において特に感動的であった瞬間、すなわち彼女がスピーチの終わりにヒーバー・J・グラント大管長にある頼みごとをしたときのことを回想しています。
「最前列から慌ただしく立ち上がり、グラント大管長は階段を上って壇上まで行った。彼女は手を伸ばし、大管長はその手を取った。彼女は『あなたがたの開拓者について歌われた有名な歌を演奏するオルガンの音色が聴きたいのですが…。ここでそれを聴いたことを覚えておきたいのです。』と頼んだ。」
オルガニストであったアレクサンダー・シュレイナーが「恐れず来たれ、聖徒」を演奏する間、ケラーはオルガンに手を置いていました。会衆の前に立ち、オルガ二ストの奮闘と荘厳な楽器が奏でる振動だけを感じながら、彼女は涙を流しました。
14.スーザン・B・アンソニー
1871年6月
婦人参政権運動のリーダーの一人であったスーザン・B・アンソニーは、ソルトレーク・シティーを何度か訪れました。彼女が初めて訪れたのは、同志でもあり友人でもあるエリザベス・ケイディ・スタントンとともに訪れた1871年6月のことでした。
2人は現在テンプル・スクウェアのアッセンブリホールがある場所にかつて建っていた旧タバナクルにおいて、会場いっぱいに集まった末日聖徒の女性たちとの5時間に及ぶ集会を行いました。アンソニーはのちにこの出来事について、「彼女たちは小さかったタバナクルにおいてわたしたちが女性だけに話をする特権を与えられたことに非常に感謝していた。集会は2時に始まり、7時に終わるまで5時間の間、中断されることなく話し合いは続いた。」と書き残しました。
1895年5月12日
何年も後にアンソニーは再びソルトレーク・シティーを訪れました。ユタがついに州としての地位を付与され、新たな州の憲法に婦人参政権が追加された頃のことでした。このときアンソニーは現在の末日聖徒にとってなじみの深い大きなタバナクルで話をしました。
当時の中央扶助協会会長であり、アンソニーの友人でもあったエメリン・B・ウェルズによって発行されていたWomen’s Exponentのある号には、アンソニーのスピーチ原稿が掲載されました。彼女は女性に投票権の平等を認めた州の決定を称賛するとともに、タバナクルについても以下のような熱烈な賛辞を贈りました。
「ちょうど24年ほど前、みなさんがこの素晴らしいタバナクルを主の業に捧げた日にわたしはここにいました。この素晴らしい建物の隅から隅までこの地域のあらゆる場所から集まった人々でいっぱいで、中に入ることができない人も多くいました。それはわたしがこれまで見た中でも最も崇高な集まりであり、正しいことを行おうとする者が誰でも経験するかもしれない最大の困難の真っただ中で集められたのです。」(第24巻、第2ページ)
1895年の訪問の数日後にエライザ・R・スノーのサイン帳に残したメモの中でも、アンソニーはユタの女性についてこう言及しています。
「政治的平等は、公民的平等や産業上の平等、教育の機会均等、宗教的平等への足掛かりに過ぎません。次の選挙の後にユタの女性たちが保有する票は、彼らが自分自身や子供たちにすべての良い事柄をもたらすための武器となるでしょう。」
15.チャールズ・A・リンドバーグ
1927年9月3日
史上初の大西洋横断を成し遂げた人物として、チャールズ・A・リンドバーグはソルトレーク・シティーで温かく歓迎されました。のちにソルトレーク国際空港となったウッドワード飛行場に彼が着陸する姿を何千人もの人々が見に訪れました。
当時のThe Improvement Eraはこう報じています。
「街は旗やまん幕で派手に飾られ、店の窓には考え得る限りのあらゆる図柄のチラシが掲示された。何千人ものファンが、この有名な飛行家を見に、そして彼の話を聞きに、飛行場や道路、リバティーパーク、そしてタバナクルに押し寄せた。彼はこの大騒ぎにうんざりしたとは言わなかったが、疲れた様子であった。しかし、大佐はソルトレーク・シティーの人々の熱意に感謝の意を表した。彼は清潔な若者であり、並外れて強固な人格を持ち、彼の活動する分野における卓越した勇気と技術を持っている。」