前福岡神殿長であり日本熊本ステークのステーク祝福師であった中村良昭兄弟が、2019年3月28日、瑞宝中綬章を受勲した。今回の受勲は熊本県と宮崎県における心臓外科医および病院管理者としての27年にわたる功労を称えたもの。叙勲は2019年7月1日、自宅にて授与された。
中村博士は1961年、熊本県において外科医として勤務を始めた。E.C.F.M.G.に合格し1967年にコーネル大学に留学しリサーチフェローとして研究を始めるために、子供がまだ小さかった家族を連れてニューヨークに移住。そこではS・フランク・レド博士とともに人工心臓の様々なモデルを作り、ジャーマンシェパードに移植を行った。そしてその研究を雑誌や人工臓器学会で発表した。1967年12月18日、ニューズウィーク誌は「移植手術が与える希望とリスク(The Promises and Perils of Transplant Surgery)」と題する記事を発表し、彼らの働きを紹介した。この研究は、1977年にコロンビア大学で世界初の心臓移植が施行される前に行われていた。
1969年に熊本に戻った中村博士は心臓外科医としての仕事を始めた。1971年、末日聖徒イエス・キリスト教会の2人の宣教師が訪れたとき、中村姉妹が玄関に出た。彼女は彼らの姿に良い印象を持ち、少しの間話をした。宣教師がメッセージを分かち合うために再び訪れてよいかを尋ねると、中村姉妹は夫が在宅する日曜日の夜に来て欲しいと伝えた。宣教師の訪問でメッセージに感銘を受けた中村家は、3ヶ月後にバプテスマを受けた。
なぜバプテスマを受けたのかを尋ねられた中村姉妹は、自身の祖父がその決心をするのに果たした役割について説明した。同じく医師であった祖父は仏教徒であったことから、式子姉妹が小さい頃から朝晩祈るように教え、日曜学校に連れて行ってくれたという。どの宗教団体にも属していなかった中村博士に対し、式子姉妹の祖父はこのように話した。「医師には宗教が必要です。どの宗教かは問題ではありませんが、宗教を持っていないと、医師として行き詰る時が来ますよ」と。その言葉を中村兄弟は心に留めていた。
バプテスマを受けて数年後、中村博士は支部会長に召された。その召しを果たしたうちの2年間、熊本では建築宣教師による教会堂建築が行われた。その2年間には一度も心臓手術は行われなかった。しかし、支部会長を解任されると手術が再開された。数年後、宮崎国立病院に転勤し、副院長・院長を歴任し、さらに看護学校長を務め、1988年に東京神殿宣教師となるために退職した。
2006年、中村夫妻は福岡神殿の神殿会長とメイトロンに召され3年間奉仕した。福岡神殿では神殿会長会のメンバーとその妻たちだけの6人であったが、彼らはともに働くことに大きな喜びを感じていた。
今回の受勲が意味するものを尋ねられ、中村姉妹は「夫はすべての患者さんに対して、とても優しく接し治療していたことを思い出します。神の愛を受けていたため、それを患者さんに分かち合うことができました」と語った。中村姉妹は、今回の受勲が中村兄弟の死後に知らされたことが兄弟にとって残念なことだったとは思わないという。「夫が生きていたら、この受勲は教会員すべてに対し貰ったものだと感じていたことでしょう。もし教会員でなければ、人生でこれほどの功績を上げることはできなかったと思います。ですから、この受勲は教会にいただいたものなのです。」
中村博士の娘である七條公美姉妹は、父親が患者に希望を持たせるために使った特別な方法を忘れることはないという。「父は患者さんに、人生は霊的なものと肉体的なものの2つからなっていることを教えていました。そして医師は肉体を治療することができる一方で、癒すことはできないとも伝えていました。癒されるためには、患者自身の霊が癒されたいと願っていなければならず、霊にその望みがなければ医師に患者を治すことができず、患者自身が癒されて生きたいという望みを持つ必要があると言っていました。父は人を癒せるのは神様だけであることを理解していました。」
瑞宝中綬章は「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合に天皇陛下から授与される瑞宝章の中の三番目の章である。また、この章は中村兄弟を正五位に叙するものである。