ニュースリリース

ポール・C・アンドラス兄弟が逝去される

戦後日本の最初の宣教師,北部極東伝道部会長(1955−1962)

                                    

2019年3月4日夜11時頃,ポール・チャールズ・アンドラス兄弟がハワイ州の病院で逝去された。享年94。葬儀はカネオヘステークセンターで4月2日に執り行われ,カネオヘ退役軍人墓地に埋葬された。

                                       

アンドラス兄弟は1924年10月5日,ユタ州ソルトレーク・シティーに生まれる。10歳のとき母親を亡くし,高校卒業後は航空機器の機械工として働いた。1943年,アメリカ合衆国陸軍航空隊に入隊,高速性に優れるが操縦が難しいと言われたB−26爆撃機の熟練パイロットとなる。終戦後,日本へ赴任した彼は,約1年半の駐留期間中に日本語を学んだ。軍は,飛行機とパイロットを日本へ送ったものの地上スタッフを本国へ帰してしまったので,パイロットは飛ぶことができず暇を持て余していたのである。1946年,アンドラス兄弟は軍を除隊してブリガム・ヤング大学へ入学する。

                                    
                                  

1948年には,再開された日本伝道部の,戦後最初の宣教師の一人に召されて再び来日,3年間にわたって奉仕した。伝道から帰還後,やはり日本で伝道したフランシス・パーカー姉妹とハワイ州ライエ神殿で結婚する。ハワイに住んでいたアンドラス兄弟は1955年11月,弱冠31歳で日本の伝道部会長に召された。

戦後日本における末日聖徒イエス・キリスト教会の礎を築く

折しも日本伝道部が北部極東伝道部と改称され,当時米国領であった沖縄と,韓国へ,伝道地を開拓して宣教師を送り込むという大任を担ったのであった。アンドラス会長は精力的に働き,1956年4月には宣教師が,韓国と沖縄に最初の一歩を印した。

また,宣教師のスケジュールを整え,共通のレッスンプランを初めて作成した。

足掛け8年に及んだ,『モルモン経』を易しい日本語に改訳するプロジェクト(佐藤龍猪訳)を完成させ,1957年5月に出版した。半年後には『教義と聖約・高価なる真珠』も出版した。同1957年6月号から月刊誌『聖徒の道』の刊行も始まり,今日の教会機関誌『リアホナ』につながっている。

こうした施策に,戦後日本の社会的変化が追い風となり,アンドラス会長在任中の改宗者数は飛躍的に伸びていった。

日本にステークを確立するというビジョンを持っていたアンドラス会長は,神権者を育成し,それまで宣教師が担っていた神権指導者の召しを日本人に引き継いだ。アンドラス会長が帰国した1962年には,全国25支部の8割方の支部会長が日本人となった。

またアンドラス会長は,日本全国23か所に及ぶ教会用地を取得した。ことに1960年,十二使徒補助であったゴードン・B・ヒンクレー長老を案内して推薦した東京・表参道の地所は67万ドル(約2億4,000万円),当時の教会が取得した世界中の不動産の中で最も高価な物件であった。ヒンクレー長老は一晩中悩み,祈り求めて決断し,デビッド・O・マッケイ大管長の許可を得て購入に踏み切る。その表参道の地所の価格は,後の高度成長時代を通じて高騰を続け,最終的に64億円で売却された。「わたしの子供が売られたような思いでした」とアンドラス兄弟は後に述懐した。その差額が基金となって,今日,日本の全国各地に教会が建っている。

1962年夏,アンドラス会長とフランシス姉妹は6年半あまりの長い奉仕を終え,数々の実りを残してハワイへ帰った。3年後の1965年,アジア初の神殿団体参入でハワイ神殿を訪れた日本人教会員たちをアンドラス兄弟は歓迎委員長・コーディネーターとして出迎え,満面の笑みで再会を喜んだ。

ポール・C・アンドラス兄弟は文字どおり,戦後日本の教会の礎を据えたキーパーソンの一人であった。

 

1972年から1977年までは地区代表に召され,日本,韓国,台湾,香港,フィリピンとハワイを担当した。また25年にわたってハワイ州ライエ神殿の儀式執行者を務め,結び固め執行者として20年間奉仕した。日本東京神殿が奉献されるまでの1960年代から70年代にかけ,ライエ神殿で多くの日本人夫婦を結び固めた。

晩年のアンドラス兄弟は歩行困難のため施設で暮らしており,伴侶のフランシス姉妹が毎日訪問していた。

アンドラス兄弟入院の報を受けた家族が3月3日に見舞ったときの状態は安定しており,楽しく会話を交わすことができた。長男と長女はユタ州から駆けつけていた。「皆が集まったのはわたしが死ぬと思ってのことでしょう。しかしわたしは死なないよ,元気を出しなさい!」と冗談めかして話していたという。その翌日,「死が近づいたように思う」との電話を受けて家族が再び集まり,最後の別れを告げる。夜半,アンドラス兄弟は安らかにこの世を去った。

アンドラス兄弟は92歳のとき,北部極東伝道部の元宣教師たちに送ったメッセージでこう述べている。「あなたがたと、日本、韓国、沖縄の教会員と一緒に働いてきたわたしたちの経験は、永遠の友情と愛のきずなを築き上げました。なんと素晴らしい祝福でしょう。……これらすべての祝福の最も美しい部分は、それらが永遠のものであり、いつまでも永遠に続くということです。」

 

葬儀の際に上映された,アンドラス兄弟の生涯を綴るスライドショーはこちら↓

https://paulandrus.weebly.com/slide-show.html

書式ガイドの注釈:末日聖徒イエス・キリスト教会に関する記事で,教会の名称を最初に引用する際には,正式名称を使うようお願いいたします。教会の名称の引用に関する詳しい情報は,こちらへ: 書式ガイド書式ガイド.