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渡邉 驩兄弟、逝去される

主の業の見証者として歩んだ,90年の生涯

2022年12月21日,日本の教会歴史において大きな役割を果たした開拓者,渡邉 驩(わたなべ・かん)兄弟が逝去された。享年90であった。告別式は12月28日に神奈川ステーク大和ワードで行われ,驩兄弟を慕う多くの人々が見送った。Zoom配信にも日本の内外から多数が参加した。


渡邉 驩兄弟は1932年(昭和7年)3月23日,石川県小松市に生まれる。彼が通った小松高校ではハワイから来た宣教師が英会話を教えていた。英語に強い関心を持ち学んでいた渡邉少年は宣教師に接して「この人たちの言うことは嘘じゃない」と直感する。それは「御霊の導きでした」と驩兄弟は振り返っている。
1950年4月,白山の雪解け水が流れる手取川でバプテスマを受けた驩兄弟は,石川県で最初の改宗者となった。


1953年3月,最初期の日本人専任宣教師の一人として召される。後に驩兄弟の伴侶となる白井八重子姉妹も4月に召され,日本伝道部で同時期に奉仕した。

1956年から1957年にかけて行われた『モルモン経』改訂プロジェクトでは,翻訳者の佐藤龍猪兄弟のアシスタントを務めた。


1957年12月,日本伝道本部(現在の東京神殿の場所)にて八重子姉妹と結婚,5人の子供たちに恵まれる。


日本で初めてハワイ神殿への団体参入が行われた1965年,北部極東伝道部会長会第二顧問を務めていた驩兄弟は,ドゥエイン・N・アンダーセン伝道部会長を助け,日本人会員が神殿参入に備えるのに尽力した。


1967年4月に来日したヒュー・B・ブラウン管長の通訳を務めたのも驩兄弟であった。これは後に「ブラウン副管長の預言」として語り継がれるものとなる。


1968年にはアジア初の東京ディストリビューションセンターが開設され,教会の文書や書籍が日本語,韓国語,中国語に翻訳され始める。驩兄弟は極東地区担当の翻訳事業部長に就任する。


1970年3月,日本万国博覧会にモルモン館を出展した教会は,公開に先立ち記者会見を開く。原稿の準備がなく,150人の記者に囲まれて臨機応変に展示の解説をしたのは驩兄弟であった。同年,日本人初の伝道部会長として日本西部伝道部に召され,福岡の伝道本部(現在の福岡神殿の場所)へ家族で赴任する。


1975年8月,日本武道館で日本地域総大会が開かれ,驩兄弟は大会準備委員会会長,またスペンサー・W・キンボール大管長の通訳を務めた。この場で日本東京神殿の建設が発表される。その瞬間の歴史的フィルムには,「全アジアのため,日本の東京に神殿を建てることを提案いたします」と通訳する驩兄弟の,張りのある声が収められている。1980年の東京神殿奉献時にもキンボール大管長の通訳を務めた。

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東京神殿,第二期の神殿会長会で,驩兄弟はアドニー・Y・小松神殿会長の第二顧問を務める。


その後も1996年,ゴードン・B・ヒンクレー大管長来日の際の通訳を務めるなど,日本の教会歴史の立役者として生涯を歩んだ。

追加資料

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